絶対に大和国つながりだと思ってたのに!?神奈川県「大和」市の誕生、そして「まほろば連邦」の夢 (3/5ページ)
「えぇか、向こうの連中と慣れ合うンじゃねぇぞ」「わぁってらぁな」対立する農民たち(イメージ)。
対立の詳細については記録が乏しいものの、旧村同士の交流断絶や誹謗中傷、境界や権利をめぐる暴力沙汰などは想像に難くありません(※20世紀の昭和期に入っても、こうした事例は各地で聞かれます)。
対立は激化の一途をたどり、ついには明治二十四1891年、分裂の危機を看過できなくなった神奈川県知事・内海忠勝(うつみ ただかつ)が仲裁に乗り出したのでした。
「大きく和せよ」日本の精神を表したネーミング内海知事は権利関係の公正化と、そもそも対立の原因となった村の名前について、鶴見村から四つの村が「大きく和する(大局的な視野に立って連携する)」事を願って明治二十四1891年9月25日に「大和」村と改称。
読みが「だいわorたいわ」でなく「やまと」なのは、知事が「和(仲良く)せよ」と言わねばならないシビアな事情を、美しい響きでマイルドに包み込もうとする意図が感じられます。