死後の世界は他界型や転生型だけじゃない コスモゾーン型とは

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死後の世界は他界型や転生型だけじゃない コスモゾーン型とは

宗教・スピリチュアリティにおける死後の行方を大きく分類すると、「他界」型と「転生」型の二つに分けられると思われる。(過去記事)ここではさらに第3のタイプとして「コスモゾーン」型を考えてみたい。

■「コスモゾーン」の考案者は漫画家の手塚治虫

死後のその先を信じる人と信じない人がいる。信じない人にとっては死は消滅の一択であろうが、信じる人の場合は様々である。天国や霊界という人もいれば、生まれ変わりの存在を信じている人もいる。現代社会に膾炙している、いわゆる「スピリチュアル」においては「宇宙と一体になる」タイプの宗教観が有力である。

スピリチュアル的な死生観では、宇宙の根源であり究極的な非人格的存在が説かれ、その存在と溶け込んでいく一体感が説かれる。手塚治虫(1928〜89)の「火の鳥」では「コスモゾーン」なる言葉で表現されている。宇宙的大生命と言い換えてもよい。

■コスモゾーン型の死生観とは

火の鳥そのものは、人間に向けられた方便としてコスモゾーンが具象化したものだと思われる。事実上の最終回(注)である未来編は、主人公の男が30億年の時を経て火の鳥と融合し、30億年前に死んだ恋人と再会し、火の鳥(コスモゾーン)に溶けていったと思われる描写で終わる。

一切の存在がそこから生まれ帰る場所。そこでは全ては一つである。私たちの個々はコスモゾーンから流れて形となったものにすぎない。その時が来ればその存在と溶け込んでいく…という死生観である。

注:火の鳥は2巻にあたる「未来編」の最終話が、1巻にあたる「黎明編」の冒頭につながる。3巻以降では、黎明編から未来へ進むベクトルと未来編から過去へ遡るベクトルが交互に繰り返される。双方のベクトルは最終的に現代編で収束する構想だった(手塚の死により未完)。

■コスモゾーンの考え方は古くから存在した

コスモゾーン型は新しい思想ではない。古代インド思想は、宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と我々個人の本質であるアートマン(我)は一体であると説く(梵我一如)。
古代ギリシャの神秘思想家プロティノス(205〜270)によると万物の一切はその根源たる「一者」(ト・ヘン)から流出したものである。
密教の本尊・大日如来もコスモゾーンとほぼ同義といってよい。大日如来とは人格神ではなく宇宙の法則を表現したものである。密教の曼荼羅は、多くの神仏が配置された図形であるが、そこに描かれている神仏は最下層の神々に至るまですべてが大日如来の現れの姿であると説いている。そして密教の奥義は大日如来と一体になることである(即身成仏)。
またイスラム教の神秘思想 スーフィズムは瞑想を深めて、「シッル」と呼ばれる意識の最下層に到達し自己を消失することを究極とする。このように表現こそ様々であるが、いずれも内容は魂の故郷であるコスモゾーンとの一体化ということで一致している。

「この聖なる場所で魂はあたかも一滴の水のごとく絶対的な実在の大海のなかに消融してしまうと申します」(井筒俊彦 イスラーム哲学の原像

■他界型や転生型とコスモゾーン型はどう違うか

コスモゾーンは無色無形であり、明確な人格神を設定する他界型(他界の主宰者)とは対照的である。具体的な形が無いため、特定の宗教宗派の伝統や権威から切り離すことが容易である。

また、転生型との違いは基本的にコスモゾーンは命の向かうゴールであり、転生のように1からやり直す必要はない。最初から解脱してるも同然ということになる。

■コスモゾーン型の特徴とそれに対する疑問

コスモゾーン型の世界観の効用としては、世界と私はつながっている。すべては一つなのだと思えることである。これにより自分は一人ではないと孤独を癒やされる。また、死は故郷に帰るだけのものであり、恐怖を超越することが期待できる。さらに自分と一つである世界や他者への親しみ・優しさを持つこともできる。以上のことから、束縛から離れ癒やしを求めたい個人主義的な現代スピリチュアルに受け入れられたのである。

一方で疑問もある。コスモゾーンという大きな存在と一体になった自分とは何なのか。この身、この意識がある一点に収束し、個が消失するならば、それは死と同じことではないのか。個を重視するスピリチュアルが最終的に個の消失につながるのは矛盾ではないか。文化史家・竹下節子は神性や宇宙エネルギーなどといったものとの自己同一を目指す方向はカルトになりやすいと警告する。よくわからない茫洋とした光景を想像して満足することは、一種の思考停止ともいえるからである。その意味ではフロイトの「退化」であるとの指摘は一考に値するだろう。

■フロイト vs ウィルバー

フロイト(1856〜1939)はコスモゾーン型の心性を「大洋感情」と呼び、意識の退化であると批判した。人間の成長過程において、赤ん坊の頃の意識は世界と自我が分離していない。つまり世界と自分は一体である。それが成長と共に自我が確立され、自分と自分以外の世界に分離される。つまりフロイトからすれば自我と世界の一体化とは思考停止どころか、幼児退行に過ぎないことになる。

これに対しケン・ウィルバーは、人間の意識を、自我が確立する前の「プレパーソナル」、自我が確立された「パーソナル」、個の意識を超えた「トランスパーソナル」に分類した。そして瞑想などのエクササイズを通じ、トランスパーソナルの境地まで到達することを説く。トランスパーソナルは、コスモゾーンそのものではなく、コスモゾーンを意識しながら完全には至らず個が消失することはない。つまり先述したコスモゾーン的世界観の効用を現実に活かせるのである。この立場からはフロイトの「大洋感情」はプレパーソナルを指したものであり、トランスパーソナルではない。

■学べる死生観

コスモゾーン型の死生観は他界・転生型とほぼ同じ歴史を持ちながら、その抽象度において科学的批判に耐えうる強度を持っている。また、「個」とは何か、「命」とは何か、などの問題を学べる機会にもなるはずである。その際には思考停止には陥らないよう注意されたい。

■参考資料

■手塚治虫「火の鳥 (文庫版)全13巻完結セット」(2004)角川文庫
■竹内節子「カルトか宗教か」(1999)文春新書
■西平直「魂のライフサイクル」(1997)東京大学出版会

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