会津藩のためなら命すら!烈女と呼ばれ婦女隊も結成した中野竹子の荒々しくも儚い生涯 (2/3ページ)
竹子、会津の地へ
そして竹子の才能を間近で見ていた赤岡大助は、ここまでの成長ぶりに手放すのは惜しいと考え、平内にお願いをして竹子を養子にしました。
大助は自身の甥と竹子を婚約させようと考えましたが、慶応4年(1868)1月に戊辰戦争が勃発してしまい、竹子ら江戸に居た会津藩士たちは会津藩主松平容保が引き上げるのに従い、全員会津藩へ引き上げることになってしまいました。
元々男勝りな性格だった竹子は、藩の危機に立ち上がることを良しと考えていたので婚約を拒んだ上、中野家に戻ります。
会津藩に着いた竹子は若松城下の坂下で剣術道場を開いている大助の元で子どもたちに学問を教えたり、年頃の女性たちには薙刀を教えました。
婦女隊結成慶応4年(1868)8月23日になると勢いに乗った新政府軍が、会津藩まで侵攻してきます。竹子は容保の義姉、照姫が坂下に避難している情報を聞き、照姫を護衛する名目で竹子の母や妹、門下生20人らと婦女隊を結成します。
婦女隊の隊士は全員斬髪し、女性の着物に袴で武器である薙刀をより振るいやすい服装をしていました。