城が欲しくば力で奪え!戦国時代、徳川家康と死闘を繰り広げた女城主・お田鶴の方【下】

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城が欲しくば力で奪え!戦国時代、徳川家康と死闘を繰り広げた女城主・お田鶴の方【下】

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城が欲しくば力で奪え!戦国時代、徳川家康と死闘を繰り広げた女城主・お田鶴の方【中】

戦国時代、遠州曳馬(ひくま。現:静岡県浜松市)城主の飯尾豊前守善四郎連龍(いいお ぶぜんのかみ ぜんしろう つらたつ)の後室として嫁いだお田鶴(たづ)の方

まだ10歳前後の幼さ妻で、前室(故人)の忘れ形見・辰之助(たつのすけ。お田鶴の方とほぼ同年代)と三人で、ぎこちなくも幸せな家庭生活を送っていたところ、永禄三1560年「桶狭間の戦い」で主君・今川義元(いまがわ よしもと)が討死。

今川家を継いだ嫡男・今川氏真(うじざね)には乱世を生き抜く器量が見込めないため、連龍は義元を討った織田信長(おだ のぶなが)への内通を決断します。

それがバレたのか、氏真は二度にわたって曳馬城へ侵攻。連龍は善戦してこれを防ぎきりましたが、和睦の条件(忠誠の証)として辰之助を人質に出させられてしまったのでした……。

夫と息子を喪ったお田鶴の方、16歳で女城主に

「……何ですって!?」

連龍と辰之助が謀殺された……急報に接したお田鶴の方は、目の前が真っ暗になりました。

聞くところによれば、二人は駿府城(すんぷ。現:静岡県静岡市)で開かれた氏真の祝宴に招かれ、すっかり打ち解けて気持ち良く酔ってしまったところを斬られたのだとか。

咄嗟に抵抗するも、討ち取られる連龍(イメージ)。

時は永禄八1565年12月20日。先の籠城戦から3年の月日が流れており、一度は信長への内通を図った連龍も、その後は(表向きだけとは言え)忠勤に励んでいたというのに。

「おのれ今川……!」

しかし、愛する夫と息子を奪われた悲しみに浸っている暇はありません。お田鶴の方はその場で飯尾の家督継承を宣言。

「曳馬の御城は、妾(わらわ)が預かります!」

かくして16歳で女城主となったお田鶴の方は、小国(おぐに。現:静岡県周智郡森町)を治める武藤刑部丞氏定(むとう ぎょうぶのじょう うじさだ)の伝手を頼って甲斐・信濃国(現:山梨県、長野県)の武田信玄(たけだ しんげん)に臣従を申し出ます。

産んだばかりの嫡男・飯尾義広(よしひろ)を抱えながら、所領を切り盛りする激務をこなす日々が3年ばかり続いた永禄十一1568年12月、三河国(現:愛知県東部)を制圧した徳川家康(とくがわ いえやす)が、曳馬城へと攻め寄せて来たのでした。

城が欲しくば力で奪え!お田鶴の方が示した武士の在り方

さて、曳馬城下へ到着した徳川家康はいきなり攻めるような事はせず、後藤太郎左衛門(ごとう たろうざゑもん)を使者に立て、お田鶴の方に帰順するよう勧告しました。

「無駄な血は流しとうない……城さえ明け渡さば、所領は安堵いたそう」

女子(おなご)はとかく安定を求め、我が子が可愛いもの。義広へ譲る所領さえ安堵してやれば、容易く降(くだ)るであろう……そう踏んだ家康の下にはお田鶴の方の実家・鵜殿一族も臣従していました。

しかし、お田鶴の方は首を縦には降りません。

「使者殿……鵜殿の者どもに伝えるがいい。我が兄(鵜殿長門守藤太郎長照)を裏切ったこと、断じて許さぬ!」

「……承知」

「……そして、徳川殿にお伝えせよ。妾は女子なれども武夫(もののふ)が家に生(はべ)りし上は、飯尾の家名に賭けておめおめ城を開くことなりませぬ、と」

降伏勧告を拒絶するお田鶴の方(イメージ)。

城が欲しくば力で奪え。それでこそ武士であろう……およそ18歳のうら若き女性が発するセリフとは思えませんが、戦国乱世に生きる武士としての覚悟を、人一倍備えていたのでしょう。

しかし、太郎左衛門の報告を受けた家康は、お田鶴の方の悲壮な覚悟を冷笑し、また哀れんだのでした。

「若い。若すぎるのぅ……その純粋さゆえに死を急ぎ、家臣や領民の命を損なうとは……」

とは言え、ここで引き下がる訳にもいかない家康は12月24日、酒井左衛門尉忠次(さかい さゑもんのじょう ただつぐ)と石川伯耆守数正(いしかわ ほうきのかみ かずまさ)を先鋒に曳馬城を攻め立てます。

「降りたい者は降るがいい!いっときの命を惜しまず、遠州武士の矜持をまっとうせん者のみ、妾に続け!」

お田鶴の方は鎧に身を固めて薙刀を奮い、最前線で徹底抗戦。徳川方300余り、城兵200余りの犠牲を出す激しい攻防が日没後も繰り広げられました。

「敵を一睡もさせるな!かかれ、かかれ……っ!」

元より死ぬ気でいるゆえ、休息なんて必要ない……お田鶴の方は手分けして夜襲を繰り返し、縦横無尽に徳川方の陣中を掻き乱します。

しかし、夜が明けると流石に疲労困憊、圧倒的優勢の徳川方に押され続け、二の丸、三の丸が陥落。ついに本丸を残すのみとなってしまいました。

壮絶な最期と、手向けられた椿の花

「……残った者は、これだけか……」

お田鶴の方の周りには、侍女17名が控えるばかり。

「若君はお逃がし申した」

「そうか、ならばよい……皆の者、これまで妾の我が侭にもかかわらず、よう従い、戦うてくれた。そなたらは女子ゆえ、降れば一命は助かろうぞ」

そう言って降るくらいなら、最初から戦いなどしない……既に覚悟を決めていた主従18名は、手に手に得物を取って最後の突撃を敢行。全員一丸となって玉砕しました。

最期まで戦うお田鶴の方(イメージ)。

「女城主を討ち取ったぞ……!」

お田鶴の方が討死したと聞いて、生き残っていた城兵たちは戦意を喪失。かくして曳馬城は陥落、やがて遠州は徳川の支配下に呑み込まれていきます。

後日、その話を聞いた家康の正室・築山殿(つきやまどの)は、お田鶴の方を悼んで侍女たちと共に葬られた塚の周りに、百本の椿を植えました。

椿は毎年綺麗な花を咲かせたため、いつしかお田鶴の方は「椿姫(つばきひめ)」と呼ばれるようになり、やがて観世音菩薩も祀られたことで「椿姫観音」として、今も浜松の人々に親しまれています。

【完】

※参考文献:
中山和子『三河後風土記正説大全』新人物往来社、1992年
楠戸義昭『井伊直虎と戦国の女城主たち』河出文庫、2016年
御手洗清『家康の愉快な伝説101話』遠州伝説研究協会、1983年

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