明智光秀が築いた琵琶湖の水城!“豪華壮麗”坂本城に「幻の天守」
新型コロナウイルスの感染拡大防止のために撮影が中断し、放送休止が続くNHK大河ドラマ『麒麟がくる』。一日も早い再開が待たれる中、今回は主人公である明智光秀が織田信長に仕えたあとに迫ってみたい。彼はそもそも織田家では新参者だったにもかかわらず、わずか三年で城持ちの大名にのし上がり、歴々の重臣を差し置いて異例の大出世。そんな彼が築造した坂本城(大津市)は、どんな城だったのか――。
光秀が異例の出世を遂げる以前、信長の家臣として初めて直面した試練が元亀元年(1570)四月の「金ケ崎崩れ」だった。当時、織田勢が越前朝倉義景の領国である敦賀に侵入し、手筒山と金ヶ崎の両城を攻め落とした際に信長は、妹であるお市を嫁がせて同盟関係にあった北近江小谷城(長浜市)の浅井長政の裏切りを知る。両勢力による挟撃を恐れて殿を木そして、下藤吉郎秀吉に任せ、まさに疾風のごとく京に逃げ帰った。
秀吉の出世譚として語られる話で、実は光秀も困難を極めたこの退却戦に加わり、将軍足利義昭近臣の一色義長の書状には金ケ崎で殿を務めた武将の名が記載され、「木藤(木下藤吉郎)」の他に明智十兵衛光秀を指す「明十」の名がある。『明智軍記』によると、その後、長政に対する報復のために行われた姉川の合戦で、信長は布陣を一三に分け、佐久間信盛隊に続く八番隊に「明智十兵衛」の名がある。
織田勢は結果、合戦に勝利したものの、長政が五〇〇〇の兵しか出さなかったことで、野戦で一気に決しようという信長の目論見は崩れた。
こうした中、同年八月末、信長に抵抗する三好三人衆が大坂の野田、福島城を拠点に蜂起。本願寺もその包囲網に加わったことで、信長は大坂から動くことができなくなった。
すると、余力を残していた朝倉と浅井勢はこの隙に乗じ、三万の大軍で南近江の志賀郡に進軍。ここには信長が築いて森可成(森乱丸の父)が城主に就く宇佐山城(大津市)があり、本願寺の挙兵は朝倉、浅井勢と連携した動きで、姉川の合戦後から続く一連の争乱を「志賀の陣」と呼ぶ。
信長は近江の敵を重視し、九月二三日、大坂から撤退することを決めて京に引き揚げ、当時、宿舎にしていた本能寺で夜を明かし、翌二四日にここを発って大津に陣を張った。これで南近江における織田勢と朝倉、浅井勢の形勢は逆転したかに見られたが、敵方が比叡山に逃げ込んでしまった。
当然、信長は彼らを憎んでも憎み切れず、山上に逃げ込んだ両勢力の糧道を断ち、干殺しを計画したが、比叡山延暦寺が朝倉と浅井勢を庇護。結局、将軍義昭の仲裁で双方は和睦したものの、信長の比叡山に対する恨みは残った。
ちなみに、光秀はこのとき、比叡山西麓にある瓜生山の勝軍山城(京都市左京区)に入っている。ここは洛中から距離もさほどなく、光秀は吉田神社(京都市左京区)の神官である吉田兼見を訪ね、今で言うサウナの石風呂を所望したと『兼見卿記』に記されている。光秀が石風呂好きだったことを示す一方で、吉田は後に朝廷のフィクサーと呼ばれることになるだけに、彼を通じて朝倉、浅井勢と和睦交渉に当たっていたのかもしれない。
一方の信長はこうした中、元亀二年(1571)九月に恨みを抱く比叡山を攻めた。いわゆる比叡山焼き討ちである。『信長公記』によると、織田勢は全山をことごとく焼き払い、「僧俗・児童・智者・上人」の別なく、全員の首を刎ね、「数千の屍」を晒すことになったといい、女や子どもも殺した。
むろん、光秀も信長のこの動きに同調していた。彼は焼き討ちの前にまず、「志賀の陣」で討ち死にした森可成に代わって宇佐山城の守将に就いた。
信長が光秀にここで、比叡山麓の土豪(地侍)の懐柔を行わせ、彼はその命令を忠実に実行。温泉で有名な雄琴(大津市)の土豪・和田秀純の懐柔は成功したが、仰木(同)の土豪は応じなかった。
■光秀は信長よりも先に天守閣がある城を持つ
光秀はそこで、焼き打ちの一〇日前にしたためた手紙で、「仰木の事は是非ともなでぎり(撫で切り)に仕るべく候。やがて本意たるべく候」という決意を和田秀純に述べた。
彼は焼き討ちの準備段階から信長の命令を忠実に実行すべく、村を撫で切りにする意思を見せ、本番でも当然、中心的な役割を担った。それは焼き討ち後、山城国愛宕郡と近江国志賀郡の比叡山領が恩賞として光秀に与えられたことからも明らか。つまり、光秀がわずか三年で城持ち大名になった理由の一つが、汚れ役を見事に果たしたからと言える。
さらにもう一つ、光秀が信長に仕える前、西近江の田中城(高島市)に籠城していた史実が最近の研究で明らかになり、彼がもともと、地の利があったことも大きい。
光秀はすぐに坂本城の築城を始め、翌元亀三年(1572)の一二月にほぼ完成。どんな城だったのか。吉田兼見が城中をほぼ回ったと『兼見卿記』の存在に書かれ、「天主(天守)」に驚いたという。信長は後に安土に地下一階、地上六階建ての壮麗な天守閣を築いたが、光秀はそれよりも前に天守閣のある城を持っていたのだ。
坂本城は本丸を取り囲むようにコの字を逆にした形で、内堀、中堀、外堀の三重の堀を巡らせて二の丸と三の丸を設け、三重の堀はすべて琵琶湖に直結。ここで開かれた茶会に出席した津田宗及はその終了後、「御座船を城の内より乗り」(『天王寺屋会記』)と記し、城の中の船溜まりから御座船のような大きな船も琵琶湖に出入りしていたことが分かる。
光秀の配下の者がその信長の自家用船を運航、つまり信長のために湖東(安土城方面)と湖西の坂本城間の送り迎えを担っていたのではないだろうか。
ここまでは信長との蜜月関係を窺わせていたのである。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。