明智光秀が築いた琵琶湖の水城!“豪華壮麗”坂本城に「幻の天守」 (1/3ページ)
新型コロナウイルスの感染拡大防止のために撮影が中断し、放送休止が続くNHK大河ドラマ『麒麟がくる』。一日も早い再開が待たれる中、今回は主人公である明智光秀が織田信長に仕えたあとに迫ってみたい。彼はそもそも織田家では新参者だったにもかかわらず、わずか三年で城持ちの大名にのし上がり、歴々の重臣を差し置いて異例の大出世。そんな彼が築造した坂本城(大津市)は、どんな城だったのか――。
光秀が異例の出世を遂げる以前、信長の家臣として初めて直面した試練が元亀元年(1570)四月の「金ケ崎崩れ」だった。当時、織田勢が越前朝倉義景の領国である敦賀に侵入し、手筒山と金ヶ崎の両城を攻め落とした際に信長は、妹であるお市を嫁がせて同盟関係にあった北近江小谷城(長浜市)の浅井長政の裏切りを知る。両勢力による挟撃を恐れて殿を木そして、下藤吉郎秀吉に任せ、まさに疾風のごとく京に逃げ帰った。
秀吉の出世譚として語られる話で、実は光秀も困難を極めたこの退却戦に加わり、将軍足利義昭近臣の一色義長の書状には金ケ崎で殿を務めた武将の名が記載され、「木藤(木下藤吉郎)」の他に明智十兵衛光秀を指す「明十」の名がある。『明智軍記』によると、その後、長政に対する報復のために行われた姉川の合戦で、信長は布陣を一三に分け、佐久間信盛隊に続く八番隊に「明智十兵衛」の名がある。
織田勢は結果、合戦に勝利したものの、長政が五〇〇〇の兵しか出さなかったことで、野戦で一気に決しようという信長の目論見は崩れた。