戦国時代、日本の地で剣術を修めた外国出身の武士「李家元宥」のエピソード【下】
前回のあらすじ 戦国時代、日本の地で剣術を修めた外国出身の武士「李家元宥」のエピソード【上】
李氏朝鮮に生まれた李聖賢(イ ソンヒョン)は、9歳となった宣祖三十1597年8月、父・李福男(ボンナム)が日本軍との戦い(慶長の役・南原城の合戦)で討死してしまいます。
遺された母と幼な子に、どのような運命が待っているのでしょうか。
日本へ連行され、毛利輝元の御伽衆に「あぁ、父上!」
福男の討死を知った聖賢は、身も世もなく悲しみの声を上げました。しかし、母は気丈に聖賢を励まします。
「お前は武人の子ですから、泣いてばかりいて父の名を汚してはなりません。必ず生き延びて、敵に一矢報いるのです」
「はい!」
しかし、母子は間もなく毛利氏の家臣・阿曽沼元信(あそぬま もとのぶ)に捕らわれ、日本へと連行。毛利輝元(もうり てるもと)の元へ召し出されました。
「ほぅ、そちが李将軍のご子息か……お父上については至極残念ながら、討ち討たれるは戦さの習いなれば、悪く思うでないぞ」
「ははぁ」
幼くも利発そうな顔立ちや立ち居振る舞いを見込んだ輝元は、聖賢を御伽衆(おとぎしゅう。側近)として取り立て、周防国熊毛郡勝間村(現:山口県周南市)に100石の領地も与えました。
「……有難き仕合わせに存じまする」
成長した聖賢は元服に際して主君・輝元より元の字を拝領、元宥(もとひろ)と改名しました。宥の字は、父を討った日本への恨みを「輝元が宥(なだ)める」という意味を込めたものかも知れません。
また、名字についても、李のままではいかにも朝鮮人なので、日本の領民たちも親しみやすいよう福余李(ふくより)と改めました。福は勇敢だった父・李福男から、そして余るほどの福を授かれるようにと考えたのでしょうか。
大野松右衛門に弟子入り、柳生新陰流を免許皆伝!成長した元宥は高橋隠岐守(たかはし おきのかみ)の娘と結婚。17歳となった慶長十1605年には、長男・長右衛門(ちょうゑもん。後の李家如宥)を授かります。
こうして日本の暮らしに馴染んでいった元宥たちの元へ、大野松右衛門家信(おおの まつゑもんいえのぶ)がやって来ました。
松右衛門は柳生石舟斎(やぎゅう せきしゅうさい)の高弟で、柳生新陰流(しんかげりゅう)を広めるために西国各地を巡っており、免許を受けた際に柳生の姓を許されたほどの使い手です。
「亡き父に恥じない武人でありたい!」
かねてよりそう願っていた元宥は松右衛門の高名を慕ってさっそく入門。剣術に研鑽を重ねたことにより、やがて打太刀(うちたち。形稽古の受け≒コーチ役)を任されるまでに成長し、ついに免許皆伝となりました。
その後、松右衛門は毛利氏の本拠地である萩(はぎ。現:山口県萩市)から九州各地へ柳生新陰流の普及に飛び回りましたが、やがて死期を迎えると元宥を枕元に招きます。そして永年愛用してきた槍と長刀を形見として譲られており、よほどの信頼関係があったのでしょう。
主命により李家を称するそれから月日は流れて元和九1623年、輝元が嫡男・毛利秀就(ひでなり)に家督を譲って隠居すると、元宥は引き続き御伽衆として、今度は秀就に仕えることになりました。
「名高き父祖の家名を受け継ぐべく、これからは『李家(りのいえ)』と名乗るがよい」
流石に李の一文字では語呂が悪いと思ったのか、秀就の命によって元宥は李家の名字を称します。
寛永二1625年に前主・輝元が亡くなると出家して元宥(げんゆう。号は道斎)となり、寛永十四1637年には孫の勘兵衛(かんべゑ。後の李家規宥)を授かりました。
やがて家督を如宥(ゆきひろ)に譲り、隠居してからも何かと秀就の側へ呼ばれたそうで、よほど気に入られていたことが判りますが、藩医となっていた如宥としては、いつまでも老父が目を光らせていては、少しやり辛かったかも知れませんね。
そして正保四1647年11月27日、元宥は59歳で生涯に幕を下ろすのでした。ついに復讐の悲願は叶いませんでしたが、彼が日本の地で築き上げた信頼や実績は、亡き父の期待に応えて余りある孝行だったのではないでしょうか。
【完】
※参考文献:
岡部忠夫『萩藩諸家系譜(復刻版)』松野書店、1999年1月
朝鮮総督府『朝鮮人名辞書』第一書房、1977年8月
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