滅亡した主家再興に生涯を捧げ”山陰の麒麟児”と呼ばれた武将「山中幸盛」【その4】 (3/4ページ)
1578年、播磨攻略を任されていた「羽柴秀吉」が毛利方の「上月城」を落とすと、従軍していた幸盛は主君・尼子勝久と共に入城を許される。幸盛を中心とした尼子再興軍はこの上月城を拠点として、三度目の尼子家再興運動を本格化してゆく。
上月城は地理的な特徴上、敵の襲撃を受けやすい城であり、再興軍は毛利軍の容赦ない攻撃を受けることになる。幸盛は持ち前の腕で奮戦するが、秀吉本軍が他城の攻略に手間取る間に毛利軍30,000に上月城を包囲されてしまう。
2~3,000の兵力で籠城する再興軍は秀吉本軍の救援を待ったが、秀吉は他城の攻略を優先する信長の意向に従い救援を断念。結果的に見捨てられ孤立無援となった再興軍は降伏。
降伏の条件として当主・勝久、嫡男豊若丸、勝久の兄弟の氏久、通久は自刃。僧から還俗し、尼子家当主となった勝久は25年の生涯を終えた。
山中幸盛の死幸盛は人質として毛利輝元の元へ護送されることになった。尼子再興軍の中心的人物として活躍した幸盛が当主・勝久と共に自刃の命を受けず、人質となった理由はわかっていない。
幸盛も勝久らと運命を共にすることはなかった。一説には、上月城を包囲した毛利軍の宿敵「吉川元春」や「小早川隆景」と差し違えるつもりであったなど、様々な見解がなされている。