人が神の存在を証明するために試みてきた幾つかのアプローチを紹介

心に残る家族葬

人が神の存在を証明するために試みてきた幾つかのアプローチを紹介

人間の歴史に宗教が絶えたことはないが、神の存在を確信することは困難であり、様々な方面からのアプローチを試みた。そのいくつかを概観する。

■自然界に仕組まれた秩序に神が存在?

自然の法則に神の意思を見る視点がある。よく例として挙げられるのがフィボナッチ数列と黄金比の関係である。フィボナッチ数列とは隣り合う2つの数を足すと次の数字になる数列。「1、1、2、3、5、8・・・」なら、3と5の和は8になる。さらに隣り合う数字を割っていく(5/3、8/5など)と、黄金比と呼ばれる「1:1.1618」の割合(近似値)に近づいていく。

黄金比は人間が最も美しいと感じる比であるという。パルテノン神殿やピラミッド、モナリザなどは黄金比によって造られているとされる。そして黄金比は自然の中にも多数見出され、ひまわりの種、アンモナイトやオウムガイの殻などの螺旋構造などがよく挙げられる有名な例である。これらは代表的な例だが、自然界には意図的に仕組まれたかのような隠れた秩序というべき事象が数多く見出される。それを偶然と見るか、人知を超えた超越的な存在と見るかはその人の選択であろう。

■科学的にアプローチした「創造論・ID論」

こうした事象を聖書の記述などと結びつけ、世界は神によって創造されたことを科学的に論証したとする「創造論」(creationism)を支持する科学者が一定数存在する。

創造論者はこうした事象はすべて聖書に書かれていることであり、聖書の記述はすべて事実であったとする。また現代では創造論をより表現をソフトにした「ID論」(インテリジェントデザイン/知的デザイン論)が盛んである。ID論の主張は創造論とほぼ変わらないが、その超越的な存在を神ではなく「サムシンググレート」と呼び、世界はこの存在によって設計されているとする。特定の創造神が持つ人格神的なイメージから、非人格的な目には見えない大いなる意思というイメージへの変換は一般にも受け入れやすい。天地自然に生命を見出す日本人の自然観とも共通しているといえるだろう。

■悪魔の証明を逆手に取った「スパゲッティモンスター」

彼らはその科学的に論証したと根拠を提示して進化論に攻撃を加え、進化論と同等の公教育に採用すべしとの運動を展開している。しかしこの科学時代においては当然様々な批判に晒されている。特に「空飛ぶスパゲッティモンスター教」は有名で、世界を創造したのはスパゲッティモンスターであるとした。もちろん本気で信じているわけではなく、仮にスパゲッティモンスターなる存在を創造神として検証すれば、どうとでも主張ができるという皮肉である。彼らは「スパゲッティモンスターの不在を証明できるか?」といわゆる「悪魔の証明」を逆手に取り反進化論者=創造論者たちを挑発している。創造論やID論は結論ありきのこじつけに近い主張もあり、このような反論が生まれるのは避けがたい。しかし事の真偽はともかく、創造論者たちの異常なまでの熱意は神の存在を求め続ける人間の業のようなものを感じざるをえない。

■イチかバチかに賭ける「パスカルの賭け」

神の存在を確信することは現代では中々困難だろう。神は不可視の存在だからだ。創造論者たちは、可視的な根拠を求め日々検証している。親鸞(1173〜1263)は信心を獲得するのは「難中之難」であると語っている。それでは、一か八か神の存在に賭けてみてはどうか。

それがパスカル(1623〜62)が主著「パンセ」で展開した有名な議論「パスカルの賭け」である。パスカルによれば、人間に神の存在を証明することはできない。信仰とは「賭け」である。神は存在するのか、しないのか。いずれに賭けることしかできない。そしてパスカルはこの賭けは「神は存在する」に賭けた方が合理的であると主張する。この賭けの結果は死後明らかになる。パスカルの想定する神はキリスト教の神であるから、神が存在した場合、神を信じる者には祝福なり永遠の命なりが与えられることになる。一方、神を信じない者には相応のペナルティが課せられる(地獄行きなど)。

神が存在しない場合は、単にいなかったというだけである。肯定派は失うものはなく、否定派も肯定派にドヤ顔するくらいで特に得るものはない。あえて言えば肯定派は信仰のために道徳や倫理で己を律したことが無駄だったことがわかり、否定派は神に縛られず自由に生きたことに満足するだろう。だとしても、神が存在した場合ほどの格差は感じられない。

宗教哲学者・上枝美典が簡潔にまとめた表によると、神が存在した場合、肯定派は「1億円プラス」否定派は「1億円マイナス」。存在しなかった場合肯定派は「1万円マイナス」。否定派は「1万円プラス」となる。

さらにこれを「死後の世界」にするとどうなるか。少し考えればわかるが、この賭けは「存在する」に賭けた方の勝ち以外の結末は無い。エピクロス(BC341〜270)の議論を援用すると、死後世界があった場合、肯定派は勝ったことが、否定派には負けたことがわかる。しかし死後世界がない場合は、勝敗を認識する自分がいないのだから結果はわからない。いずれにしても否定派のハイリスクローリターンが際立つ想定である。それなら神の存在に賭けた方が得である。しかし上枝は、そんな生命保険のような信仰を神が受け入れるだろうかと指摘する。真にもっともな指摘であるが、それができない人間にとってパスカルの賭けは一考に値する。

■終わりなき探求

論証や賭けも神を確信したいための切なる願いである。だがもう少し素直になれないだろうか。誰しも夕焼けの空、流れる雲が形を変える様をみて美しさを感じたことはあるはずである。なぜこれほど美しいのだろうか。そもそも「美しい」という感情は何なのか。雄大な富士や舞い散る桜を見て美しいと感じる心とは。私たちは人知の及ばない大きな何かを感じることがないだろうか。「美しい」という感情の正体は未だ明らかではないようだ。この感情は生存活動において全く役に立たない。星空に感動していたら獣に襲われてしまうではないか。この意味不明な感情が、その正体がサムシンググレートであろうとスパゲッティモンスターであろうと、私たちの心に宿っていることに素直に感動する。神を垣間見えるとしたそうした瞬間ではないだろうか。もちろんそれもひとつの見方である。科学・医学がどれだけ進歩しても、人間が弱い存在である限り神を求める歴史は続く。

■参考資料

■上枝美典「『神』という謎−宗教哲学入門−」世界思想社(2000)
■久保有政「天地創造の謎とサムシンググレート」学研(2009)

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