「スパイ容疑で追放」シーボルトに「間宮林蔵のリーク説」が急浮上!

日刊大衆

写真はイメージです
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「長崎の郊外に診療所兼蘭学塾(鳴滝塾)を開き、日本の蘭学の発展に尽くした人」――ドイツ人医師のシーボルトについて、教科書にはこのように書かれている。

 確かに彼は伊東玄朴や高野長英ら名だたる蘭学者を育て、帰国後は日本の文化をヨーロッパに宣伝。だが、一方で、江戸時代の後期、植物標本などと一緒に国禁の日本地図を持ち出そうとして国外追放処分となったことから“スパイ”という別の顔を持っていたとされる。

 この「シーボルト事件」では天文学者である高橋作左衛門景保や、その部下に加え、通詞や医師四十数名が連座して遠島以下の処分を受けたが、ここにきて新たな史料が発見され、通説が覆りつつある――。

 シーボルトは1796年、南ドイツのヴュルツブルクで生まれた。一族は多くの大学教授を輩出した医学界の名門で、彼は一歳で父を亡くして伯父に育てられ、ヴュルツブルク大で医学、動物学、植物学、民族学を学び、中でも当時は知られていなかった国々の動植物などに興味を抱くようになった。

 こうして、まずオランダに渡り、オランダ領東インド(現・インドネシア)陸軍の外科少佐に任命され、同国のアジア貿易の中心地だったバタヴィア(ジャカルタ)に移る。

 この時代に日本に渡航することを考えたようで、彼は文政六年(1823)七月、二七歳のときに長崎・出島のオランダ商館付の医師として来日。ところが、東インド総督のカペレンから学術調査を命じられていたとされ、日本地図の入手も調査の一環だったとすると、来日の目的にスパイ活動もあった可能性がある。

 そのシーボルトは追放処分を受けるまでの七年間、商館長の働き掛けにより、幕府に出島の外で活動することを許され、お滝という日本人女性と結婚し、娘のお稲(イネ)をもうけた。彼がお滝を「オタクサ」と聞き間違えたという話は有名で、彼女や塾生から日本語を学び、漢字も多少は読むことができたようだ。

 こうした中、お稲が生まれた翌文政一一年(1828)一〇月に突如、シーボルト事件が起き、彼は翌年九月に国外追放の処分が決まり、一二月にジャヴァ号で出島を出港。帰国する。三三歳だった。

 通説によれば、シーボルトが乗船することになっていたコルネリス・ハウトマン号が当時、日本の西南部を襲った台風(シーボルト台風)により、長崎港内の稲佐海岸に乗り上げて座礁。臨検の結果、彼が積み込んだ禁制品の日本地図などが見つかり、スパイ活動が露見したとされる。

 だが、この「オランダ船積み荷発覚説」は、シーボルト記念館(長崎市鳴滝)発行の研究報告『鳴滝紀要』(1996年)に掲載された梶輝行浜薬科大学教授の論文により、現在は否定されている。実際、船に積み込まれていたのは船体の安定を保つためのバラスト用の銅五〇〇ピコルだけだったという。

 それではなぜ、シーボルトのスパイ活動が露見したのか。

 長崎学研究所(長崎市)は昨年一一月、県内にある古書店を通じて新たな史料を購入。これは文政一一年(1828)一一月二九日、呉服商である三井越後屋の長崎代理店だった中野用助が、江戸の本店に送った事件の報告書を書き写したものだ。

 和紙三枚の両面に、長崎における取調べの様子や押収品一覧などが書き連ねられ、主に次のようなことが分かる。(1)シーボルトに日本地図などが秘かに受け渡されたことが江戸で露見し、高速の飛脚便で長崎に通報した。(2)一一月九日に書状が届き、長崎奉行所が出島でシーボルトを取り調べ、さまざまな禁制品が見つかった。

 従来はオランダ商館長の日記によって、事件が江戸で露見したと伝えられていたが、日本側の史料で裏付けられた形だ。

 さらに新史料には「長崎入口図 壱巻」「古銭 七包」「琉球国地図 壱枚」などの押収品一覧も詳細に記録され、「紅毛方(オランダ)にはかかわり申さず」という一文もあり、事件が日蘭貿易に影響を及ぼさないことも書き添えられている。

 むろん、これですべての謎が解けたわけではなく、翻訳家である秦新二氏の著書『文政十一年のスパイ合戦』(文藝春秋刊)にも注目したい。

■禁制品と知りながらもスパイの自覚が欠如!?

 同書は事件の一方の当事者となった幕府天文方・書物奉行の高橋作左衛門景保とシーボルトの手紙を正確に翻訳しており、緊迫した二人のやりとりが伝わる。景保は、日本全国を測量し、『大日本沿海輿地全図』の作図中に死んだ伊能忠敬の志を継いで本格的な日本地図を完成させた天文学者で、事件発覚後に幕府に捕えられ、獄死する。シーボルトは「親愛なるグロビウス(作左衛門のオランダ語)様」、景保は「親愛なる友シーボルト様」と呼び、親密な関係だった。

 そんな二人の手紙を読むと、問題の日本地図を「K・V・J」という暗号で呼び合い、景保がシーボルトに渡し、その見返りにプラネタリウムなどの西洋の貴重品を求めていたことが分かる。また、景保が部下に日本地図を写し取らせ、通詞にいわゆる“ブツ”の受け渡しを委ねた事実も確認することができる。

 当然、これではいくら手紙で暗号を使っても機密は保てず、どこから洩れても不思議ではない。間宮林蔵リーク説も、その一つだ。景保がシーボルト差し出しの包みを運び役の通詞から受け取り、その中に林蔵宛ての小包があったため、彼の家に届けさせると、林蔵は中身を確かめずに勘定奉行に届け出た。結局、そこから決定的な証拠はでなかったが、この事実からも林蔵のリーク説は十分にありえる話だ。

 ただ、一連の無防備なやり取りからして、そもそもシーボルトも景保も、地図が禁制品と知る一方、スパイ活動をしているという意識はなかったのかもしれない。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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