「スパイ容疑で追放」シーボルトに「間宮林蔵のリーク説」が急浮上! (1/3ページ)
「長崎の郊外に診療所兼蘭学塾(鳴滝塾)を開き、日本の蘭学の発展に尽くした人」――ドイツ人医師のシーボルトについて、教科書にはこのように書かれている。
確かに彼は伊東玄朴や高野長英ら名だたる蘭学者を育て、帰国後は日本の文化をヨーロッパに宣伝。だが、一方で、江戸時代の後期、植物標本などと一緒に国禁の日本地図を持ち出そうとして国外追放処分となったことから“スパイ”という別の顔を持っていたとされる。
この「シーボルト事件」では天文学者である高橋作左衛門景保や、その部下に加え、通詞や医師四十数名が連座して遠島以下の処分を受けたが、ここにきて新たな史料が発見され、通説が覆りつつある――。
シーボルトは1796年、南ドイツのヴュルツブルクで生まれた。一族は多くの大学教授を輩出した医学界の名門で、彼は一歳で父を亡くして伯父に育てられ、ヴュルツブルク大で医学、動物学、植物学、民族学を学び、中でも当時は知られていなかった国々の動植物などに興味を抱くようになった。
こうして、まずオランダに渡り、オランダ領東インド(現・インドネシア)陸軍の外科少佐に任命され、同国のアジア貿易の中心地だったバタヴィア(ジャカルタ)に移る。
この時代に日本に渡航することを考えたようで、彼は文政六年(1823)七月、二七歳のときに長崎・出島のオランダ商館付の医師として来日。ところが、東インド総督のカペレンから学術調査を命じられていたとされ、日本地図の入手も調査の一環だったとすると、来日の目的にスパイ活動もあった可能性がある。
そのシーボルトは追放処分を受けるまでの七年間、商館長の働き掛けにより、幕府に出島の外で活動することを許され、お滝という日本人女性と結婚し、娘のお稲(イネ)をもうけた。彼がお滝を「オタクサ」と聞き間違えたという話は有名で、彼女や塾生から日本語を学び、漢字も多少は読むことができたようだ。
こうした中、お稲が生まれた翌文政一一年(1828)一〇月に突如、シーボルト事件が起き、彼は翌年九月に国外追放の処分が決まり、一二月にジャヴァ号で出島を出港。帰国する。三三歳だった。