家督が継げなきゃ自力で家を興す!関ヶ原で活躍した信長の甥・織田長孝の武勇伝【上】

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家督が継げなきゃ自力で家を興す!関ヶ原で活躍した信長の甥・織田長孝の武勇伝【上】

戦国武将の織田(おだ)家と言えば、ほとんどの方が天下布武を唱え、「第六天魔王」の異名で恐れられた風雲児・織田信長(のぶなが)をイメージすると思います。

確かに、若い頃の「うつけ者」ぶりをはじめ、良くも悪くも極端で派手なイメージの強い信長に注目が集まるのも納得ではありますが、言うまでもなく信長ばかりが織田家ではなく、地道に実績を積み上げた者もいました。

今回はそんな一人・信長の甥に当たる織田長孝(おだ ながたか)の生涯を辿ってみたいと思います。

家督が継げないなら、自分で家を興せばよい!

織田長孝の生年は不詳ですが、すぐ下の弟・織田孫十郎頼長(まごじゅうろう よりなが)が天正十1582年の生まれですから、長隆はそれ以前の、恐らく天正年間(1573~1581年)に生まれたものと推測されます。

幼名は赤千代(あかちよ)。父は信長の弟で茶人として高名な織田源五郎長益(げんごろうながます。有楽斎)、母は側室(名前や出自は不明)だったため家督は継げず、正室の子である孫十郎が継ぐことになっていました。

しかし、そんな境遇に腐ることなく「ならば一から身を立て、家を興せばよいだけだ!」と前向きな赤千代は、元服して源二郎(げんじろう)長孝と改名。

本能寺に散った信長(左)の野望を継いだ羽柴秀吉。

本能寺の変(天正十1582年)で横死した信長の事業を受け継いだ羽柴秀吉(はしば ひでよし。後の豊臣秀吉)に仕え、懸命に奉公した結果、美濃国大野村(現:岐阜県揖斐郡大野町)に500石の領地を獲得しました。

やがて秀吉によって従五位下・河内守の官位を授かり、妻(正室ではない)も娶って多くの子宝に恵まれたそうです。

親の支援が多少はあったであろうとは言え、自分の努力で領地を得て一家を興すのは並大抵ではありません。これだけでも十分に頑張ったと言えますが、長孝の働きは戦場でも示されるのでした。

関ヶ原で、猛将・戸田武蔵守と一騎討ち!

慶長五1600年「関ヶ原の合戦」で父と共に徳川家康(とくがわ いえやす)率いる東軍に属した源二郎は、乱戦の中で西軍の猛将・戸田武蔵守半右衛門重政(とだ むさしのかみ はんゑもんしげまさ)と一騎討ちに。

「やぁやぁ遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ……我こそは織田河内守長孝!いざ尋常に、槍合わせ願おう!」

「ふん……若造め!この羽柴武蔵が槍の錆にしてくれようぞ!」

「関ヶ原合戦屏風」に描かれた戸田重政の雄姿。

半右衛門は信長の弔い合戦(山崎の戦い。天正十1582年)をはじめ、数々の武功によって秀吉から羽柴の姓を名乗ることを許された歴戦の猛者。片や初陣の源二郎ですが、ここで怯んでは織田家の名が廃ります。

「吐かせ!この老いぼれめが、引導を渡してくれるわ!」

大言を口にした以上、もう後には退けません。源二郎は必死の思いで槍を突き出し、半右衛門の繰り出す老練の槍筋を受けては躱(かわ)しての大立ち回り。

「御屋形様っ!」

両雄一歩も退かないところへ、源二郎の家来である矢田太兵衛(やた たへゑ)が半右衛門の左鐙(あぶみ。足を乗せて身体を安定させる馬具)から足を外し、引きずり落としたところへ同じく家来の山崎源太郎(やまさき げんたろう)がやって来て、半右衛門の首級を掻っ切りました。

「敵将・羽柴武蔵守、わしらが大将・織田河内守様が討ち取ったぞ!」

するとそこへ、玉木五右衛門(たまき ごゑもん。津田長門守次郎左衛門信成の家来)がやって来て言いがかりをつけました。

言いがかりをつける五右衛門

「やいうぬら、その首級はうちの長門守様が上げたんじゃ。横取りするんじゃねぇ!」

「「何だと!」」

太兵衛と源太郎は五右衛門と口論の結果、斬り合いとなって相討ち、三人とも息絶えてしまったので、やむなく源二郎は他の者に半右衛門の首級を持たせ、家康の陣地へ向かわせたのでした。

さぁ、敵は総崩れ。どんどん追撃して更なる武功を立てる絶好のチャンスを、源二郎は活かせるのでしょうか。

【続く】

※参考文献:
桑田忠親『太閤家臣団』新人物往来社、1971年1月
戦国人名辞典編集委員会 編『戦国人名辞典』吉川弘文館、2005年12月
家臣人名事典編纂委員会 編『三百藩家臣人名事典』新人物往来社、1987年11月

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