起源は今でも不明な点が多し。天下を獲った徳川家の母体「松平家」8代の歴史【その2】
天下を獲った徳川家の母体となった「松平家」。今回は、家康を含め9人存在した歴代当主を中心に、松平家の歴史を追っていきたい。
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起源は今でも不明な点が多し。天下を獲った徳川家の母体「松平家」8代の歴史【その1】 安祥松平家の台頭3代目の信光の三男である4代目「親忠」は、安祥城を与えられ安祥松平氏を興す。1400年代末期に起こった井田野合戦では、庶派の力を借り侵攻してきた勢力を撃退し、一族の中で地位を上げた。
5代目の「長親」の治世になると、駿河今川氏や北条早雲の侵攻をうけて国は混乱する。本軍は岩津城を攻めたが、4代目親忠の長男であり、岩津松平家3代目・親長の奮戦もあり撃退に成功する。しかし、今川軍の侵攻によって大きな損害を受けた岩津松平家は徐々に衰退してゆく。
一方、長親要する安祥松平家は一族内で勢力を拡大し、松平において宗家化することをきっかけに戦国大名化していくことになる。長親は1500年代の前半には仏門に入り、「道閲」と号した。家督は長男の「信忠」が継いだ。
一族の内紛からの家臣団分裂
長親の活躍によって勢力拡大に成功した松平家であったが、後を継いだ6代目の「信忠」は家臣の信頼を得ることができなかったという。
徳川家の歴史を記した資料「三河物語」には、当主として必要な「武勇・情け・慈悲」の三つがいずれも欠けていたと記載されている。一族内では信忠の弟である信定を当主に擁立する一派が現れ、謀反の動きもあるなど、家中は混乱し国力を落とした。
1523年、信忠は一族内の協議によって隠居が決定。家督を子の清康に譲り大浜に移った。松平家7代目当主となった「清康」は、徳川家康の祖父である。
この時代の松平家の家中分裂騒動には、信忠自身の問題以外に先代の長親の存在が挙げられている。長親は長寿であり、当主を退いた後も松平家内部における影響力を保持していた。
長親は、信忠よりも三男の信定を偏愛していたとも伝わっており、そのことが家中の分裂を引き起こしたのではないかという説も存在する。
【その3へ続く】
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