引き裂かれた姉弟愛…。飛鳥時代に生きた姉・大伯皇女と弟・大津皇子の悲劇 【その3】

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引き裂かれた姉弟愛…。飛鳥時代に生きた姉・大伯皇女と弟・大津皇子の悲劇 【その3】

文武両道で容姿にも優れ、人望も厚く将来を嘱望されていた飛鳥時代の貴公子・大津皇子(おおつのみこ)。幼い頃から寄り添うように育った姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)。

自由奔放な性格が災いしてか謀反を疑われ自死に追い込まれる大津皇子の悲劇と、母のように愛情を降り注ぎ常にその身を案じていた姉・大伯皇女の深い悲しみ……

お互いに大切な存在同士でありながら、運命に引き裂かれてしまった姉と弟の最期を、万葉集に伝わる二人の和歌も絡めながらご紹介します。

【その1】では、『幼い頃に母を亡くし寄り添うように生きてきた姉と弟のプロフィール』、 【その2】では、『弟・大津皇子に降りかかる運命』などを綴っています。ぜひ、そちらも併せてごらんください。

引き裂かれた姉弟愛…。飛鳥時代に生きた姉・大伯皇女と弟・大津皇子の悲劇 【その1】

引き裂かれた姉弟愛…。飛鳥時代に生きた姉・大伯皇女と弟・大津皇子の悲劇 【その2】

父・天武天皇が亡き後に大津皇子の謀反発覚

天武天皇の宮殿があった伝飛鳥宮跡
(写真:photo-ac)

686年9月、大津皇子にとって偉大な父・天武天皇が崩御。そのわずか3週間後に、人々を震撼させる事件が起きました。大津皇子の謀反が発覚したのです。

【密かに伊勢へ下向した大津皇子〜父の葬送の際、なぜ姉に会いに抜け出したのか〜】

事件について『日本書紀』では、新羅僧・行心(新羅から渡来した僧)が大津に謀反を勧めたとし、『懐風藻』では、親友だった川島皇子(かわしまのみこ)が謀反を密告したと伝えています。

大津が実際に謀反を企てたかどうか、その真相は全くの謎です。

しかし、大きな疑問として残るのは、天武の殯宮儀礼(葬送)という重要な国家行事の発端に、伊勢神宮に斎王として奉仕していた姉・大伯皇女に会いに伊勢へと下向したことです。

なぜ、天皇崩御直後という厳戒態勢の中で、皇太子草壁に次ぐ地位にあるにもかかわらず、大和を抜け出したのか。

鵜野皇后(うのこうごう/持統天皇)ならずとも、大津のこの行動には、誰もが懐疑の目を向けたのは仕方がないことでした。

大津皇子の逮捕と無念の自死

大津皇子に素早く「死」を命じた持統天皇(写真:wikipedia)

大和に戻った大津皇子は、即座に逮捕されます。同時に、連座者30余人も捕えられました。

この事態に対して、鵜野皇后は即座に大津に「死」を命じました。大津は捕えられた翌日、24歳という若さで自決して果てたのです。

「百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」(万葉集 巻3-416)

(訳:磐余の池に鳴いている鴨を見るのも今日限りと、私は雲の彼方に去っていくのだろうか)

大津皇子が死を賜った時、涙を流しながら詠んだという歌です。豪胆といわれた大津皇子が涙を流した理由……
志なかばにこの世を去らねばならないという無念さゆえでしょう。

池を泳ぐ鴨を眺めるのも最期……と。
(写真:photo-ac)

その無念さとは、謀反に失敗したことか、それとも父天武の遺志を守ることができなかったことなのか。

自由奔放で、人懐っこく、おおらかな性格で知られた大津皇子。彼の周囲には多くの人がいたのに間違いありません。しかしながら、そうした人々の思惑が複雑に交差し絡み合い、大津の悲劇に繋がっていったのではないでしょうか。

大伯皇女の心の叫びが伝わってくる歌

弟の身を案じつつ姉が眺めた二上山(写真:photo-ac)

父親である天武天皇の葬送が始まったというのに、危険を冒してまですがるような思いで自分を訪ねてきた弟・大津皇子。その弟が、大和に帰るときに大伯皇女が詠んだ歌が『万葉集』に収録されています。

「二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君か ひとり越ゆらむ」

(訳:二人で行けども行き過ぎにくい秋山を、どうやって弟の大津皇子は独りで越えているだろうか)

大伯の歌から読み取れるのは、謀反であれ、忠誠であれ、大津の将来に困難しか見えないことです。弟の身を案じる心の叫びが、ひしひしと伝わってくるようです。

大和帰京時に詠んだ2首の絶唱歌

姉が弟の墓に供えようとした馬酔木(写真:photo-ac)

大津皇子自決の1ヶ月後、大伯皇女は斎王の任を解かれ、大和に戻ります。この解任劇には、やはり大津謀反の影響が色濃く感じられるのです。

大伯が大和に戻った時、最愛の弟はもうすでにこの世にはいませんでした。亡き弟を詠んだ歌は『万葉集』の中でも、絶唱として知られています。

伊勢の斎宮より大和に上る時に詠んだ歌。

「見まく欲り 我がする君も あらなくに なにしか来けむ 馬疲るるに」(万葉集 巻2-164)

(訳:逢いたいと想う弟の大津皇子ももういないのに、どうしてきてしまったのだろう。無駄に馬を疲れさせに来ただけなのか)

大津皇子の屍が二上山に移葬された時に詠んだ歌2首。

「うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟と我が見む」(万葉集 巻2-164)

(訳:死んだ弟と違ってこの世の人である私は、明日からは弟の埋葬されている二上山を弟だと思って眺めることであろうか)

「磯の上に生ふる 馬酔木を 手折らめど 見すべき君が 在りと言はなくに」(万葉集 巻2-166)

(訳:岩のほとりに生える馬酔木を手折ろうとしても、それを見せるべきあなたがいると、世の人の誰も言ってくれないではないか)

幼い頃から二人で生きてきた最愛の弟を失った姉の悲しみがひしひしと伝わってくるようです。

弟・大津皇子の菩提を弔った姉・大伯皇女の生涯

大津皇子を弔う薬師寺(写真:photo-ac)

大伯皇女のその後の消息ははっきりしていません。『日本書紀』によると、702年に41歳で死去しています。

おそらくは、生涯独身を貫き、弟の菩提を弔う人生であったのでしょう。大津皇子の鎮魂寺・薬師寺の『薬師寺縁起』によると、694年に大伯が伊賀国名張郡に天武天皇供養のため「昌福寺」を建立したされます。

しかし、天武供養とは表向きで、実は大津の冥福を祈るために、持統天皇の援助のもと建てられたとの説があるのです。

それが事実であるなら、持統の大津への鎮魂の証ともとれて、少し救われた気持ちになるのは筆者だけでしょうか。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

【完】

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