ホントに来たの?北鎌倉に遺されている陰陽師・安倍晴明ゆかりの史跡を紹介

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ホントに来たの?北鎌倉に遺されている陰陽師・安倍晴明ゆかりの史跡を紹介

北鎌倉駅の裏改札から円覚寺(えんがくじ)を過ぎて、建長寺(けんちょうじ)方面へと向かう道中、踏切の傍らに立つ石碑に気づいた方はいるでしょうか。

安部清明大神の石碑。大正年間に氏子が建立したもの。

石碑には「安部清明大神」と刻まれていますが、後ろのフェンスには「陰陽師 安倍晴明大神の石碑」と解説の木札がかかっており、これがかの高名な安倍晴明(あべの せいめい)を祀ったものと判ります。

言い伝えられるところによれば、石碑は「昔、この辺り(現:鎌倉市山ノ内)へ雨乞い祈願のためにやってきた安倍晴明が逗留していた」名残なのだそうですが、本当なのでしょうか。

鎌倉までホントに来たの?

安倍晴明と言えば、陰陽術を操って式神(しきがみ。鬼神の一種)を使役し、さまざまな異変を解決した神秘的なヒーローとして知られますが、彼が鎌倉ひいては東国にやって来たという記録は残されていないようです。

疫病神を退治する安倍晴明。「泣不動縁起」より。

※当時は交通網が発達しておらず(移動手段は牛馬か人力)、また治安も悪かったため、決して現代のように気軽な行き来はできませんでした。

では、なぜこの地と安倍晴明が結びついたかと言えば、鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡(あづまかがみ)』に

「鎌倉入りした源頼朝(みなもとの よりとも)公は、山ノ内にあった首藤兼道(すどうの かねみち)邸を移築して仮住まいとした。
この家は正暦年間(990~995年)に建てられたものだが、安倍晴明の護符(ごふ。お守り)が貼ってあったため、200年弱にわたりずっと火災を免れていた(要約)」

という旨の記述があり、安倍晴明本人が滞在していたというよりも、恐らくこの地に土着していた首藤一族の誰かが京都で安倍晴明から護符を授かり、それを大切に祀っていたのでしょう。

探してみよう!安倍晴明ゆかりの史跡たち

また、近くの八雲神社(やぐもじんじゃ)には安倍晴明が厄除け(あるいは雨乞い)のために置いたとされる「清明石(せいめいいし。厄除石、雨乞石)」が祀られています。

清明石。筆者は「雨乞石」と聞いていた。踏みつけると祟りで雨が降らなくなるとか。

元は十王堂橋(じゅうおうどうばし。北鎌倉駅から大船寄り)の近くに置かれていたらしいのですが、戦後の道路拡張(あるいはアメリカ進駐軍による破壊)に伴って、罰が当たるのを恐れた住民が現在地に移したそうです。

※かつては十王堂橋の近くに「晴明井戸」もあったそうですが、現在では詳細不明となっています。

この清明石は子供の頃から「踏んづけると『びっこ(跛。足が不自由な状態)』になるよ!」と聞かされており、古い人の中には「びっこ石」と呼ぶ方もあります。

他にも、建長寺への道中に鎮座する第六天社(だいろくてんしゃ)境内にも「安部清明大神」を祀る石碑があり、踏切そばの石碑ともども、後世の者が安倍晴明の霊験にあやかろうとした「晴明信仰」の一環だったのかも知れません。

※どうもこの辺りの方は「アベノセイメイ」と聞いて、それなら絶対「安部清明」の漢字に違いないと思い込んでいたようです。

こうした道端の何気ない石碑などでも、一つ一つに由緒があるので、もし興味があったら気にして見ると、鎌倉散策がよりいっそう楽しめるでしょう。

※参考文献:
北鎌倉湧水ネットワーク『ガイドブックに載らない北鎌倉の神々―千古不変・北鎌倉おとな探偵団プロジェクト』夢工房、2008年5月

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