奇跡の復活V! 照ノ富士が本誌にだけ語っていた胸中「どうせ自分は…」

日刊大衆

写真はイメージです
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 奇跡の幕内復帰から奇跡の優勝へ。大相撲七月場所で日本中を感動の渦に巻き込んだ照ノ富士。「個人的には、まずは勝ち越し」と、今場所前の本誌インタビューでは、謙虚な目標を語っていた。「こうやって笑える日が来ると信じてやってきた」 優勝インタビューで、こう喜びを語ることになろうとは、本人も予想外だったのかもしれない。「殊勲賞と技能賞をW受賞しての記念撮影では、会心の笑みを見せていました。2014年2月に新入幕し、翌15年2月に新関脇に。同年夏場所で初優勝し、三役昇進からわずか2場所で大関となるスピード出世でした」(相撲記者)

 ところが、悲劇の始まりは15年秋場所。稀勢の里戦で右膝から崩れ落ち、大ケガを負ってしまう。当時の心境を照ノ富士は本誌取材に、こう語っている(以下、〈〉は取材時における照ノ富士の発言)。〈大関2場所目の稀勢の里戦で、右膝をケガしてからなんです。それまでは、“どういう相撲を取っても俺は勝てる”みたいな意識があって、(中略)勢いで相撲を取っていたんですね。でも、「それじゃあ、ダメなんだ」と、初めて気づきました。ケガを含めて、自分の相撲に責任を持たないといけない……と〉

 その後も、稀勢の里との因縁は続く。17年3月の春場所、V2を狙う新横綱、稀勢の里との優勝をかけた千秋楽の一番だ。「稀勢の里は13日目の日馬富士戦で、左肩に横綱生命を縮める致命傷を負います。その後、2連敗して迎えた照ノ富士戦。判官贔屓のムードの中、館内には“モンゴルへ帰れ!”といった心ない野次も飛んでいました」(前出の相撲記者)

 日本中を敵に回しての一戦は、稀勢の里が逆転優勝。その際の胸中を照ノ富士は、こう振り返っている。〈(野次は)本当は聞こえていましたよ。自分だって人間ですからね……〉

 照ノ富士もまた、このとき深い傷を負っていたのだ。〈13日目、古傷を痛めてしまったのは自分の責任ですし、そういうことを人前で言うべきじゃないと思っていました〉〈どうせ自分はヒール(悪役)だから、何を言っても通用しないでしょ(笑)〉

■糖尿病、C型肝炎、腎臓結石まで

 そんな無理がたたってか、17年9月に大関陥落。すでに満身創痍の状態だった。〈大関から落ちることが決まった時点で、引退を決意して、師匠(伊勢ケ浜親方)に、「辞めさせてください」と言いに行ったんです。もともと膝の負傷がありましたけど、検査を受けたら、糖尿病、C型肝炎、腎臓結石まで見つかったことが大きかった。医者には、「入院して、ちゃんと治療をしなければ、あと2〜3年で死んでしまいますよ」とまで言われて……〉

 師匠の引き留めで引退は考え直すが、十両で負け越し。以降、全休が続き、19年春場所には序二段まで番付を下げてしまう。〈師匠には5〜6回、“引退させてほしい”と言いました。だけど、師匠から、こう言われたんです。「これから生きていくためにも、ちゃんと体を治しなさい。すべては、それからだ」って〉

 そこで、これまでの不摂生を見直し、ゼロからやり直す決意を固めた照ノ富士。17年5月の本誌インタビューでは、今にも通ずる胸中を語っている。〈自分が大関に上がった頃は、メディアを含め、たくさんの人がチヤホヤしてくれたこともありました。でも、ケガをしたら、周囲から人が……。自分はそうした時期も変わらず応援してくれた人たちを忘れないし、ずっと大切にしていきたい。そういう人たちのために一番一番、頑張りたい。自分が、どこまで行けるか試してみたいんです〉

 苦難を経て、再び角界のスターに躍り出た照ノ富士。さらなる飛躍を願う!

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