アルコール依存症で早死? 関ヶ原の戦いで西軍を裏切った武将「小早川秀秋」の死因を考察【前編】

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アルコール依存症で早死? 関ヶ原の戦いで西軍を裏切った武将「小早川秀秋」の死因を考察【前編】

1600年に勃発した「関ヶ原の戦い」。「西軍」に与しながら合戦中に「東軍」に寝返り徳川方に味方した武将「小早川秀秋(こばやかわひであき)」は、西軍敗北の直接的な原因を作ったともいわれる男だ。

秀秋はその2年後に21歳という若さでなくなっているが、その死因については様々な憶測が流れている。

今回は、関ヶ原の戦いで東軍に寝返った小早川秀秋の短い生涯と、その死因について考察してみたい

出生から大名へ

秀吉の息子として一時は豊臣家の後継となった小早川秀秋だが、秀吉との血の繋がりはなく養子であった。秀吉と正室の「おね(高台院・北政所)」夫婦は子供に恵まれなかったためと考えられる。

そのため、おねの実兄であり八男の子宝に恵まれていた「木下家定」の五男を養子として迎えた。1582年に生まれたこの男児が、後の小早川秀秋である。

秀吉は秀秋を自身の後継者として考えていたようで、1589年、7歳の秀秋を元服させ、丹波国に10万石の領地を与え91年には豊臣姓を名乗らせている。

「小早川秀秋」の浮世絵(Wikipediaより)

小早川家へ

有力な後継候補であった秀秋だが、1593年、秀吉に待望の実子「豊臣秀頼」が誕生すると立場が揺らいでゆく。秀吉の秀頼に対する溺愛ぶりは有名で、多くの後継候補や養子関係を解消したという。もちろん秀秋も例外ではなかった。

その後、秀吉の家臣・黒田官兵衛の仲介で、実子のいなかった毛利輝元の元に養子として送られる計画が浮上。結果的に毛利本家ではなく、毛利元就の三男・「小早川隆景」の養子となる。1594年、「小早川秀俊」と名乗った。

この頃に毛利輝元の養女であった「古満姫」と結婚。「秀秋」と改名したのは養父である隆景が死亡した1597年のことである。

絹本着色小早川秀秋像(高台寺蔵) Wikipediaより

関ヶ原

秀吉の死後、徳川家康と豊臣家臣の筆頭・石田三成の対立を軸に関ヶ原の戦いが開戦。秀秋は筑前・筑後59万石の大名として合戦に臨んだ。

「西軍」として戦った秀秋だったが、合戦の最中に突如として「東軍」に寝返る。秀秋の裏切りによって形勢が変わり西軍は敗北。戦功により旧宇喜多秀家領の岡山に加増・移封。戦後まもなく秀秋から「秀詮(ひであき)」へと改名している。

関ヶ原の戦いから2年後の1602年に死亡。享年21歳。秀詮には実子がいなかったため、小早川家は改易されている。

【後編】では秀秋の具体的な死因について考察する。

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