豊臣秀吉の水攻めにも落城せず。”忍の浮き城”と呼ばれた関東七名城の一つ「忍城」【前編】

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豊臣秀吉の水攻めにも落城せず。”忍の浮き城”と呼ばれた関東七名城の一つ「忍城」【前編】

室町時代の中期に武蔵国埼玉郡忍(現在の埼玉県行田市)に築城された「忍城(おしじょう)」。関東七名城にも数えられるこの城は、戦が盛んであった戦国期において一度も落城することがなく、難攻不落の堅固な城として「忍びの浮き城」と呼ばれた。

今回は忍城の名を有名にした豊臣秀吉による小田原征伐を中心に、忍城の歴史を振り返る。

築城

忍城の築城に関しては、正確な年月と築城者は不明だ。しかし、鎌倉時代以降に武蔵国を中心に勢力を拡大した成田氏によって築城されたと考えられている。

成田氏は「享徳の乱」において関東菅領上杉氏と戦った一族で、その際に拠点として築かれたのが忍城とされている。

1479年には成田氏の「成田正等(しょうとう)」か養子の「顕泰(あきやす)」が城主であったとされ、正等が忍城を築城したとする学説も存在する。

忍城があったとされる沼の跡地。現在は「水城公園」となっている(Wikipediaより)

構造的な特徴

城自体は一般的な平城だったが、忍城最大の特徴は築城された土地にあった。当時の行田市周辺は湿地帯であり沼地が多かった。

沼を埋め立てず、その中にある島に城を建設した忍城は自然堤防を生かした造りで、天然の要塞として非常に攻めにくい城であったようだ。

忍城の戦い

忍城を一躍有名にしたエピソードが豊臣秀吉による小田原攻めである。1590年、天下統一に向けて歩みを進めていた秀吉は、小田原城を本拠地としていた後北条氏を打つために大軍を差し向ける。

豊臣秀吉肖像

秀吉の軍は後北条氏傘下の忍城にも攻め寄せ、総大将を「石田三成」とする軍は2万に及んだとされる。後北条氏の家臣であった忍城城主・成田氏長は自身が小田原城に籠城していたため、代わりに「成田長親(ながちか)」が城代となる。長親は500の兵と3,000の民で忍城に籠城し三成軍と対峙した

三成は力尽くで忍城を落とすことが難しいとわかると、忍城の周囲を囲うように全長30km近くにもなる「石田堤(いしだつつみ)」と呼ばれる堤防を築き、水攻めを画策した。

忍城はなんとか持ち堪えたが、その間に本拠地であった小田原城が開城したため戦は秀吉軍の勝利に終わる。戦には敗北したものの忍城が落城することはなく、この事実が忍城が「忍の浮き城」と呼ばれる所以となった。

【後編へ続く】

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