異例の大出世!戦国時代に商人から一大名にまで上り詰めた小西行長の活躍から斬首まで

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異例の大出世!戦国時代に商人から一大名にまで上り詰めた小西行長の活躍から斬首まで

戦国時代は農民から武士になった豊臣秀吉や猿楽師から武士になった大久保長安がいたりと、意外な出自から武士になった人物が多い時代でありました。

その中でも商人から武士として見出され、豊臣家臣として多大なる活躍をした人物がいました。

その人物は小西行長(こにし-ゆきなが)。今回は行長が武士になった経緯と武士としてどのような活躍をしたのかご紹介します。

 小西行長/Wikipediaより

商人から武士へ

行長は堺の商人である小西隆佐(こにし-りゅうさ)の次男として永禄元年(1558)に生まれます。次男だったので養子として出されることになります。

そして行長は商人として養子先の商売相手である宇喜多家へ出向くのですが、そこで当主だった宇喜多直家に才能を見出され、宇喜多家の家臣になりました

 宇喜多直家/Wikipediaより

その後天正7年(1579)、宇喜多家が織田家に属した際、三木城攻めを行っていた豊臣秀吉の元に直家からの使者として行長が出向きます。

行長はそこでも才能を発揮したことで秀吉の目に止まり、今後は秀吉の家臣として歩んでいくことになりました。

舟奉行として秀吉をサポート

秀吉の家臣となった行長は舟奉行として海上に関することを管理することになります。水軍を指揮することはもちろんのこと、物資の海上輸送も抜かりなくこなしました。

豊臣秀吉/Wikipediaより

そして、天正13年(1585)の紀州征伐や天正15年(1587)の九州征伐、肥後国人一揆で名を挙げた行長は肥後国(熊本県)南部を領地とする大名として出世しました。

講和内容により秀吉の怒りを買う

文禄元年(1592)の文禄の役の際では、先鋒として釜山に上陸しました。行長は朝鮮に近いことと水軍の指揮権を有していたことから先鋒になったと考えられます。

上陸後は漢城、平壌と破竹の勢いで都市を制圧していきました。

他の隊も朝鮮の都市を制圧していくのですが、明軍の到来で戦場は混戦に。次第に兵糧不足に悩まされるようになり、この状況を見て行長は石田三成と共に明側と講和交渉に臨みました。

 石田三成/Wikipediaより

講和交渉では、行長はあろうことか秀吉は明に降伏する名目で講和を結んでしまいます。この内容を知った秀吉はもちろん大激怒。命を失うところでしたが、前田利家のおかげで事なきを得ました。

その後の慶長の役では講和交渉での失態をカバーできるくらいの武功を要求されたため、怒涛の勢いで朝鮮・明軍と戦いますが、慶長3年(1598)の秀吉死去と共に帰国を命じられました。

東軍ではなく西軍に与した行長

帰国後は徳川家康に接近しますが、慶長5年(1600)に起きた関ヶ原の戦いでは家康側である東軍ではなく西軍として家康に対峙しました

 徳川家康/Wikipediaより

行長が西軍に与したのは、武士としてのきっかけを与えてくれた宇喜多家への義理文禄・慶長の役で強い関係性になった三成との義に応えたのではないかと考えられています。

しかし、行長の思い空しく小早川秀秋たちの裏切りによって敗北し、捕らえられます。

そして、三成たちと共に京都の六条河原で斬首されました。行長はキリシタンだったので、ポルトガル王妃から授かったキリストとマリアのイコン(聖書の出来事を描いた絵)を掲げて、3回頭に載せた上で処刑されました。

最後に

商人から一転して武士として歩んだ行長。中国地方の三大謀将の1人、宇喜多直家と関白となった豊臣秀吉から才能を目に止められていたので、行長が商人時代から優秀だったことがわかります。

また、生まれが商人ということで損得勘定を大切にする背景から文禄・慶長の役では交渉役として動いたのかもしれません。もしかしたら、関ヶ原の戦いも兵力差から勝てると見込んで西軍についたのかもと思えてしまいますね。

参考

円道祥之『戦国友情伝 ~戦乱が結びつけた!?男と男~』 白石一郎『海のサムライたち』

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