戦国時代、いかなる権力にも屈せず火炎の中に没した気骨の禅僧・快川紹喜の生涯 【その3】
甲斐美濃同盟が結ばれた当初は信長の侵攻を許さなかった斎藤龍興も、束の間の平和に士気が緩み、信長にあっけなく侵略されてしまいます。
そのことで、快川紹喜の運命も変わっていくのでした。ここまでのお話は、ぜひ【その1】【その2】をご覧ください。
戦国時代、いかなる権力にも屈せず火炎の中に没した気骨の禅僧・快川紹喜の生涯 【その1】 戦国時代、いかなる権力にも屈せず火炎の中に没した気骨の禅僧・快川紹喜の生涯 【その2】 恵林寺に戻り、信玄の懐刀として活躍へ
稲葉山落城とともに、快川紹喜は美濃を去り、甲斐に移ります。しかし、これにより武田信玄との信頼関係は一層深まったことは間違いありません。
快川は、恵林寺住持として、信玄正室三条夫人をはじめ武田家ゆかりの人々の葬儀で導師を務め、さらに有名な信玄の旗「風林火山」の文字も執筆したとされています。
信玄は快川をただの禅僧としてではなく、外交交渉はもちろん、領国経営についても相談に値する人物として認めていたようです。
しかし、そんな快川と信玄の絆は、1573(元亀4)年の信玄の死によって断ち切られてしまいました。
1572(元亀3)年に取り掛かった西上作戦の最中、信玄の病状が悪化し陣中で没したのでした。
信玄は自分の死を3年間秘することを遺言。その葬儀は遺言通り、1576(天正4)年に、快川を大導師として執行され遺体は恵林寺に埋葬されました。
斜陽の武田家を救うため外交戦略を展開
信玄の後を継いだ勝頼は、長篠の戦で織田・徳川連合軍に大敗。家運は衰退の一途をたどります。
斜陽の武田家にあって快川紹喜の立場はどのようなものであったのでしょうか。信玄が快川に期待したことは、勝頼への強力なサポートであったはずです。
快川の卓越した外交手腕や学識の高さから、自分亡き後の武田家の行く末を任せたと考えても不思議ではありません。
織田氏への切り札である人質を返還
そうした快川紹喜の外交政策が、1581(天正9)年の織田信長五男御坊丸の身柄返還にみられるのです。御坊丸は、信玄の西上作戦時、岩村城で捕えられ甲府で人質として暮らしていました。
信長による甲州征伐が濃厚になりつつある時期、切り札である人質を返還するのは、得策ではありません。
しかし、快川紹喜は織田との和親のため、御坊丸返還を勝頼に進言したのではないでしょうか。
快川は、妙心寺派のネットワークから、当時の信長の軍事力を見極めていたことでしょう。それ故に、武田家を救うのは、講和以外にないと確信していたのです。
織田氏に屈せず炎に包まれ落命した快川紹喜
しかし、時すでに遅く、それから約4か月後に武田家は滅亡。
快川紹喜は、信長に敵対した六角義定、三井寺の上福院、足利義昭家臣の大和淡路守らを恵林寺に匿い、織田信忠の引渡し要求を拒否したのです。
その後、織田氏により恵林寺は焼き討ちにあいました。
このとき、老若上下、僧俗を問わず百名近くの人間が、山門の楼閣上に押し込められ、放たれた火により焼き殺されました。
安禅不必須山水(安禅は必ずしも山水をもちいず)
滅却心頭火自涼(心頭を滅却すれば 火も自ずから涼し)
織田氏に屈することなく、炎に包まれながら落命する最後の瞬間に快川紹喜が唱えた言葉です。
現在、恵林寺三門脇に快川国師を偲ぶ唯一の遺構である供養塔が佇んでいます。
溢れ出る人間味が快川の魅力
快川紹喜の生き様をどのように感じましたか。快川の生きた時代は紛れもない乱世です。
この時代傑出した僧の多くが、武将に仕え、外交・内政など政治的顧問の役割を担っています。僧でありながら軍師として活躍した人物もいました。
そうした中、快川に感じるのは溢れ出る「人間味」です。あれほど不仲であった斎藤義龍の法要を引き受け、その子の龍興を救うため奔走。
武田家にあっては身の危険を顧みず武田家存続のために尽力。自分を滅ぼした信長についても、ある記録が残っています。
信長最愛の女性の一周忌を恵林寺で行う
1574(天正2)年、恵林寺で快川が施主・導師として「雪渓宗梅大禅定尼」の一周忌が行われました。
快川の法語によると、雪渓宗梅は「岐陽太守(信長)最愛の女性」であったということです。
この女性を、濃姫(帰蝶)にあてる史家もいます。その真偽はともかく、自分を美濃から追うきっかけとなった信長ゆかりの女性を、快川紹喜は遠く離れた甲斐の地で懇ろに弔っているのです。
今はたとえ敵となったとしても、かつての縁を大切にして、人としてやるべきことは、きちんとやる。こうした人間味に満ちた快川紹喜だからこそ、信玄は厚く信用したのでしょう。
恵林寺の三門。快川国師の遺偈が掲げられている(写真:photo-ac)
快川紹喜亡き2か月後、本能寺の変で燃えさかる炎の中に没し信長と信忠歴史は繰り返す……快川紹喜を焼き殺した信長と信忠は、そのわずか2か月後、明智光秀に攻められ本能寺の変で燃えさかる炎の中に没したのでした。
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