平安時代の“ゴーストバスター”!“陰陽師”安倍晴明「伝説の真贋」 (2/3ページ)

日刊大衆

僧侶に加持祈祷させると、瓜が動き出し、医師が二ヶ所に針を刺したら止まり、武者が刀で割ると、中で蛇がとぐろを巻き、両目に針が刺さっていたという。

 むろん、以上はすべて説話。ただ、晴明が生存中、陰陽師として、それだけ名を挙げたからこそ、こうした伝説が生まれたとも言え、江戸時代になると、彼の話は一層、誇張され、その母は信太の森(大阪府和泉市)の狐になった。

 だが、晴明はこれだけ多くの伝説を残しながら、確かな史料から確認することができる履歴は決して多くない。のちに晴明の末裔は土御門家を称することになり、その記録によると、彼は寛弘二年(1005)に他界。系図に「享年八五」とあることから延喜二一年(921)生まれとなる。父は安倍益材(先祖は、かぐや姫に求婚した右大臣阿部御主人のモデルとされる)というが、確証はない。

 当時は陰陽師といえば、『今昔物語集』に登場する前述の賀茂忠行と、その子である保憲が著名だった。当然、晴明が陰陽師の技術を習うには、賀茂父子に教えを乞う必要があり、説話通り、その弟子だったことは確かだろう。

 ただ、陰陽師デビューがいつかは分からず、延喜二一年生まれとすると、五二歳の頃に「天文博士」となり、正暦五年(994)頃まで、その職にあったことになるが、そもそも陰陽師とは何か。歴史学者である繁田信一氏の『陰陽師』によれば、朝廷には陰陽寮という組織があり、陰陽部門と暦部門、天文部門などで構成され、狭義の意味の陰陽師は国家的な災害などについて卜占を行う官人を指した。暦の作成などを担う暦博士や天体観測、気象観測などを行う天文博士も、平安時代半ばから卜占の技術を持つ者が就くようになり、陰陽寮に所属する官人はすべて、「陰陽師」と呼ばれるようになったという。ちなみにその後、安倍家(土御門家)は陰陽道の家として、師匠筋に当たる賀茂家とともに二流を形成し、天文道は前者に、暦道は後者に住み分けされた。

■師匠に対抗意識があり実像をより誇張した!?

 さて、少なくとも二〇年以上、天文博士の地位にあった晴明(一時は陰陽博士になっていたと読み取ることができる記録も残る)はやがて、「陰陽の達者」(『政事要略』)、すなわち達人という評価を得た。

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