鎌倉幕府滅亡の元凶は“虚弱体質”!?北条高時に「暗君の汚名」の真実!

日刊大衆

写真はイメージです
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 現在、毎週日曜日朝にNHK-BSプレミアムでアンコール放送されている大河ドラマ『太平記』。吉川英治の『私本太平記』を原作に、『麒麟がくる』の池端俊策らが脚本を担当した約30年前の作品で、お笑い芸人の片岡鶴太郎が鎌倉幕府最後の得宗となる北条高時を演じ、当時、大きな話題を呼んだ。

 中でも高時が、主人公の真田広之演じる足利高氏が北条一族から妻を迎えた際、その宴席で主賓をいじりまくった次のシーンはよく知られている。高時は高氏が不機嫌そうに席を立とうとした瞬間、新婚である彼に「さては閨(寝所)急ぎか」と執拗に絡み、御家人らが嘲笑。同席していた佐々木道誉に「判官、足利殿は閨急ぎじゃ、閨急ぎじゃ」と追い打ちを掛け、彼が「これはしたり」と応じると、「したり、したり」と高氏を辱めた。このシーンは後に高氏が新田義貞と幕府を滅ぼしたことから、このときの恨みがその背景にあったのかと視聴者に思わせ、鶴太郎は高時の暗君ぶりを見事に演じきった。

 その北条高時は応長元年(1311)、名執権といわれた父の貞時が没し、わずか九歳で得宗となった。得宗は執権政治を確立させた北条義時の法名ともされ、北条嫡流家の当主で幕府の事実上の支配者がこう呼ばれたが、貞時は死去に際し、幼い高時のために内管領(得宗家の執事)である長崎円喜と安達時顕(高時の舅)に政務を任せた。

 つまり、高時はこの時点でお飾りで、五年後の正和五年(1316)に一四代執権を継いだものの、実権は円喜と高資の父子、時顕が掌握。執事である円喜を通じて出された案件についてはただ、「それなら舅殿の言うとおりに……」などと言うだけで、政務を彼らに任せきりだったという。

 当然、長崎父子と時顕の利害が衝突し、高時は嘉暦に改元された正中三年(1326)、二四歳で執権の職を辞して三月一六日に出家。その後継の座を巡って両者が対立し、「嘉暦の騒動」と呼ばれる事件に発展した。

 当時、執権の補佐役だった連署の金沢貞顕(北条庶流家)も出家しようとし、長崎高資がこれに猛反対。長崎父子が同じ得宗家被官(家臣)である五大院宗繁の妹を母に持つ邦時(高時の長男)を執権に就けたかったからだ。

 とはいえ、二人にとって御しやすい邦時は当時、生まれたばかりの幼児。さすがに執権にするわけにはいかず、貞顕に繋ぎ役として白羽の矢を立てた。当然、貞顕が出家すれば、高時の弟である泰家に執権職が巡ることになり、長崎父子はそれだけは避けたかったのだ。

 というのも、泰家は高時の同母弟で、舅は前述の安達時顕。泰家が執権となれば、パワーバランスが一気に安達一族に傾きかねない。長崎父子はそこで、貞顕にも告げずに秘密裏に彼の執権就任を画策。高時が出家した三日後の朝、使者を貞顕の元に遣わせると、執権の座を喜んで受けた。

 だが、貞顕はやがて長崎父子の企みに乗ったことを激しく後悔し、執権になった当日、その候補の一人だった泰家が抗議の意味から出家すると、幕府の御家人らは老いも若きもこぞって追随。得宗家の執事に過ぎない長崎父子の権勢にそれだけ、反発する御家人が多く、そうした怒りが次第に貞顕に向けられるようになると、彼は身の危険を感じ、三月二六日に執権を辞任。在職期間はわずか一一日だった。

 こうした中、幕府最後の執権にその後、赤橋守時(北条庶流で足利高氏の義兄)が就いた。

 騒動の最中、長崎父子にとって目障りだった泰家が前述のように出家し、権力争いの軍配は一時、彼らに上がったが、御家人らが反発。元弘と改元された元徳三年(1331)四月に後醍醐天皇の討幕計画が発覚して情勢が緊迫する中、八月六日、高時が長崎高資を暗殺するとの噂が広まり、側近が処刑される事態が起きた。

 だが、同月二九日に後醍醐天皇が挙兵したという知らせが鎌倉に届き、その後に各地で反乱の狼煙が上がると、京の六波羅探題が足利高氏に攻め落とされ、新田義貞も鎌倉に乱入。元弘三年(1333)五月二二日、高時は三一歳のとき、鎌倉の東勝寺で一族もろとも自刃し、鎌倉幕府は滅亡した。

■高時は病気がちだけに暗君の評判は気の毒!?

 軍記物の『太平記』は高時が田楽と闘犬に夢中になり、泥酔した彼が踊りを舞い、かつ、自身に追従する御家人らの中にも田楽法師や犬に巨万の富を投じた者がいたという話を掲載している。

 要は高時が田楽と闘犬に興じるばかりで、政務をおろそかにしたことが幕府滅亡に繋がったといいたいのまた、『保暦間記』には「すこぶる亡気の体」とある。正気を失った愚か者というような意味だろうか。

 この両書が後世の高時評に繋がった反面、いずれも幕府滅亡後に書かれたことから、ことさら彼の暗愚が強調された印象で、当時の評判ははたして、どうだったのか。

 連署として支えた前述の金沢貞顕も「田楽のほか、他事なく候」と評しているが、高時をかばうなら、父である貞時は晩年、政治に意欲を失い、すでに長崎円喜が実質的に幕府を支配する体制ができつつあったことも確か。

 高時は九歳で得宗を継いだあと、その既定路線に乗るしかなく、「田楽のほか、他事なく候」は裏を返せば、政治は円喜らが担うため、それしかやることがなかったと言うこともできる。

 また、貞顕の書状からは高時が病弱だったことも分かる。彼が二四歳の若さで執権から退いて隠居した理由は大病を患ったためで、前述の「亡気」という表記も病気がちで、どこか虚ろなところがあったからかもしれない。

 だとすれば、後世の高時評は気の毒と言えなくもない。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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