鎌倉幕府滅亡の元凶は“虚弱体質”!?北条高時に「暗君の汚名」の真実! (1/3ページ)
現在、毎週日曜日朝にNHK-BSプレミアムでアンコール放送されている大河ドラマ『太平記』。吉川英治の『私本太平記』を原作に、『麒麟がくる』の池端俊策らが脚本を担当した約30年前の作品で、お笑い芸人の片岡鶴太郎が鎌倉幕府最後の得宗となる北条高時を演じ、当時、大きな話題を呼んだ。
中でも高時が、主人公の真田広之演じる足利高氏が北条一族から妻を迎えた際、その宴席で主賓をいじりまくった次のシーンはよく知られている。高時は高氏が不機嫌そうに席を立とうとした瞬間、新婚である彼に「さては閨(寝所)急ぎか」と執拗に絡み、御家人らが嘲笑。同席していた佐々木道誉に「判官、足利殿は閨急ぎじゃ、閨急ぎじゃ」と追い打ちを掛け、彼が「これはしたり」と応じると、「したり、したり」と高氏を辱めた。このシーンは後に高氏が新田義貞と幕府を滅ぼしたことから、このときの恨みがその背景にあったのかと視聴者に思わせ、鶴太郎は高時の暗君ぶりを見事に演じきった。
その北条高時は応長元年(1311)、名執権といわれた父の貞時が没し、わずか九歳で得宗となった。得宗は執権政治を確立させた北条義時の法名ともされ、北条嫡流家の当主で幕府の事実上の支配者がこう呼ばれたが、貞時は死去に際し、幼い高時のために内管領(得宗家の執事)である長崎円喜と安達時顕(高時の舅)に政務を任せた。