プロレス2大巨頭、ジャイアント馬場とアントニオ猪木「BI砲秘話」 (2/2ページ)
この違いが後のプロレス人生を方向づけたのではと思います」
馬場から遅れること約3年、猪木はようやくアメリカに武者修行に向かい、成長を遂げる。
「この過酷な海外転戦で猪木さんはひと皮むけた。そこで得た自信と馬場さんへの対抗心が、日プロを放逐された豊登が作った新団体、東京プロレスへの参画につながります。しかし、同団体はわずか4か月で崩壊しました」(前出の記者)
その後、猪木は日本プロレスへ復帰し、67年に馬場とBI砲を結成する。
「BI砲は兄の馬場、弟の猪木といった雰囲気で、競い合いながらも、息が合っていた。猪木の卍固めと馬場のコブラツイストの競演など、客席が大いに沸いたものです。しかし、猪木が実力をつけようとも、日プロ内の序列は馬場に次ぐ二番手でした。馬場との直接対決も団体が受け入れず、不満をためていた。結局、日プロの不正経理問題に端を発したゴタゴタを機に退団し、72年に新日本プロレスを旗揚げします」(ベテランのプロレス記者)
一方の馬場も日本プロレスを退団し、日本テレビのバックアップを得て全日本プロレスを設立。以降、両者はそれぞれの団体を率いて、覇権を争うことになる。
「馬場さんにとって、アメリカのプロレスこそが頂点。歴代NWA世界ヘビー級王者など、豪華な外国人レスラーをズラリと並べました。一方、それができない猪木さんは、闘いを全面に押し出した情念のプロレスを展開。異種格闘技戦や日本人レスラー同士の死闘など、ファンを熱狂させました」(前出の山本氏)
74年には、猪木が馬場に対戦要望書を送って対決を迫り、80年代前半には、ブッチャーやハンセンの引き抜き合戦が起きるなど、両雄の間には常に火花が散った。
「ただ、2人が心底、憎み合っていたとは思えません。一度、岡山の全日本の会場に、たまたまプロモーションで来ていた猪木が訪れたことがある。開場前でしたが“馬場さん!”と言う猪木に、馬場も“おう、寛至”とうれしそうに話していた。ライバルであっても、2人で会えば、やっぱり兄と弟なんだなと思いましたね」(前出のベテラン記者)
時に手を取り合い、時に反目しながら、昭和プロレス黄金期を築いたBI砲。2人だけにしか分からない強い絆が、そこにはあったのかもしれない。