南北朝の英雄「二世の実像」【中編】楠木正成の長男「異名は小楠公!」 (2/3ページ)

日刊大衆

それよりもむしろ、この間に北朝、つまり足利との和平を模索していたとみるべきではないか。実際、正成がまさにそうで、正行の死後、楠木家の当主として南朝を支えた末弟の正儀も北朝と和平交渉を進めた。

 一方、正行が父の死から一一年で挙兵した背景には、そうせざるを得なくなった事情も垣間見える。挙兵する三年前の興国五年(1344)、関東(常陸国)における南朝勢力の拡大を試みて失敗した北畠親房が吉野に戻った。彼が折り紙つきの抗戦派だったことから南朝内部の空気は一変し、正行は和平を掲げながらも挙兵に踏み切らざるを得なかったのではないか。

 彼はまず正平二年(1347)八月、紀伊国隅田城(橋本市)に進攻。楠木氏の拠点は当時、河内の東条城(富田林市)にあったとみられ、吉野の朝廷との間で兵站線を確保することが狙いだったとされ、続いて河内国池尻(狭山市)や同八尾で北朝軍(幕府軍)と戦い、八月二七日に同藤井寺で敵方の主力と合戦した。『太平記』が正行の初陣とする合戦で、それによれば、楠木軍が摂津の天王寺や住吉辺りを放火して回ったことから洛中は一時、騒然。尊氏は「天下の嘲笑、武将の恥辱」と考え、細川顕氏(河内や和泉などの守護)を大将に、三〇〇〇騎余りの大軍を河内に出陣させた。

 この天王寺付近を撹乱して回る戦術はかつて、父の正成が使った手法。正成がその後、河内国千早城に鎌倉幕府軍を引き寄せ、この間に幕府が滅亡した事情を知る尊氏や北朝首脳は、正行の動きを脅威に感じたはず。三〇〇〇騎余りの北朝軍はこうして藤井寺に布陣したものの、正行の軍勢に不意を突かれて敗退。正行はまさに父譲りの軍略を展開し、連戦連勝の快進撃を続けた。

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 一方、その年の一一月、摂津の渡辺(大阪市)まで兵を引いていた細川顕氏は、山名時氏(丹波守護)と連合して態勢の立て直しに着手。正行はこの北朝軍と天王寺や住吉で合戦し、顕氏は戦わずして逃げ、時氏は自身が負傷したばかりか、弟である義兼らを失った。なお、『太平記』は当時、正行が寒水が流れる淀川に落ちた敵兵五〇〇人以上を救出して治療を施し、衣服や鎧、馬を与えて返したという美談を伝える。

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