南北朝の英雄「二世の実像」【中編】楠木正成の長男「異名は小楠公!」 (1/3ページ)
南北朝時代の英雄とされる武将の“二世”に迫った前回、第一弾で取り上げた足利尊氏の三男である足利義詮は生前、善入寺(現・宝筐院=京都市)の僧である黙庵に「余が亡くなったら、楠木正行の墓の傍らに葬ってもらいたい」と頼んだ。
善入寺に眠る正行は楠木正成の長男で南朝の功臣。敵(北朝)である義詮が本当に、そう言ったかは微妙である反面、彼の菩提寺である善入寺には実際、正行の首塚がある。その正行は「大楠公」の正成に対し、「小楠公」と讃えられたように、武略は父親譲りと評され、「桜井の別れ」の逸話で知られる。
南朝の年号でいう延元元年(1336)、足利勢との決戦地である湊川(神戸市)に向けて出陣した正成は死を覚悟し、桜井の駅(京都府大山崎町付近)で供をしていた一一歳の正行に河内に戻るように伝え、別れに際し、次のように教訓した。「正成が討ち死にしたら必ず天下は(足利)尊氏のものとなる、しかし、そうなっても長年の忠義を捨てて降参してはならぬ。一族郎党一人のうち、一人でも生き残っているなら、金剛山あたりに立て籠もり、命を捨てて忠義に励め」
結果、正成は湊川の合戦で敗れ、敵ながらも彼に同情した尊氏は、その首を河内にいた妻子に返却。正行は変わり果てた父の姿に涙を流して自害を決意したが、母に諭されて臥薪嘗胆、朝敵の足利勢を倒すことを夢見て、精進を重ねた――。
これは『太平記』が伝える少年時代の正行の姿で、彼は「桜井の別れ」のときの年齢から逆算すれば、嘉暦(1326)生まれとなる一方、元亨二年(1322)説もあり、後者に基づいた場合は当時、一五歳。これは当時の成人年齢に当たることから、そもそも正成が正行に滔々と諭したという話自体に疑問も残り、実際は出陣せずに河内にいて、父の留守を守っていた可能性もある。
実際、正行は生年もさることながら、父の死から自身が挙兵するまでの一一年が空白期間。この間、観心寺(河内長野市)に河内国小高瀬荘(守口市)を寄進するという南朝の後村上天皇の命を伝達するなど、河内の国司(守)に任じられていたと考えられるものの、まさに空白期間となっている。
はたして『太平記』にある通り、河内守として力を蓄えながら、本当に打倒足利の機会を虎視眈々と窺っていたのか。