紫電一閃! 川上哲治、ON、清原和博、イチロー…プロ野球「天才打者伝説」

日刊大衆

清原和博
清原和博

 バットを揺らし、ゆったりと構える男。そのたたずまい、まるで剣豪のごとし。誰もが脱帽した天賦の才を解き明かす!

 紫電一閃――。その男がバットをひと振りすれば、球場の雰囲気はガラリと変わる。記録にも記憶にも残る球界の天才打者は、数多くの伝説を残してきた。「常人には、とても理解の及ばないことを平然とやってのけるのが、天才の天才たるゆえん。プロ野球は野球の才能に秀でた職人の集まりですが、そんな彼らが憧れ、尊敬する選手がごく少数、存在します。天才バッターといえば、長いプロ野球の歴史においても、名前が挙がる選手は限られますね」(スポーツ誌デスク)

 そこで今回は、黄金期の屋台骨をコーチ、監督として支えた“西武の頭脳”伊原春樹氏(元西鉄、巨人他)と、“天才”落合博満の愛弟子でもある愛甲猛氏(元ロッテ、中日)の証言を交えながら、名にし負う天才たちの伝説を検証。彼らの実像に迫ってみたい。

 やはり、いの一番に挙げるべきは“打撃の神様”、川上哲治。代名詞“赤バット”で戦後のプロ野球人気を牽引した象徴的な存在だ。「のちに大打者となる川上も戦後、巨人に復帰した直後は薄い壁一枚の長屋暮らし。そこでは隣室に住む同僚の青田昇と、夜ごと相手の気配が消えるまで素振り合戦をするのが日課だったといいます。誰よりも練習熱心。そのひたむきさが、彼を“神様”にまでしたんです」(前同)

 そんな川上の言葉として語り継がれているのが、「ボールが止まって見える」という名言。「私も現役時代は映像でしか見たことがない」と前置きしながら、伊原氏が言う。「実際にボールが止まることは当然ないんだけど、心技体が一致すると、そういう境地になることは確かにあります。私ら二流選手にはそれが半年に1回あるかないか。それをずっと持続したのが川上さんですよ」

 その後、川上は監督としてV9を達成。その立役者として一世を風靡したのが、2人の天才・ONだ。「王貞治がコーチの荒川博と二人三脚で“一本足打法”に取り組んだことは、よく知られています。“上げる右足の高さが決まるまでの道程のほうが苦しかった”と述懐していることから分かるように、王は努力で才能を開花させた。真の天才肌は、真っ暗な地下室でスイングの音で良し悪しを聞き分けていたという、長嶋のほうかもしれません」(巨人軍関係者)

 長嶋茂雄の能力の高さは、デビュー戦で4打席連続三振を奪った金田正一をして「動物的な“勘”と、投手の心理を読む“術”を持っている」とも言わしめたほど。伊原氏もまた、若き日にミスターの才能を目の当たりにし、心底驚いたという。「プロに入ったばかりの頃、オープン戦が雨で中止になって、西鉄の寮にあった室内練習場を巨人に貸したことがあってね。そこで初めて生で打撃を見たんです。私なんか、当時は打撃投手のボールを真芯に当てるのも四苦八苦。それを、あの人はよどみのないリズムで、来た球を、そのまま同じ方向にきれいに打ち返していてね。これがプロの技術か、と思い知らされましたよね」

■“神主打法”で3度の三冠王に

 一方、80年代を牽引したのが“神主打法”で3度の三冠王に輝いた落合博満。ロッテ在籍時、投手から野手転向を機に、直々に薫陶を受けることになった愛甲氏は語る。「オチさんの打撃は、捕まえたボールは全部90度の中(フェアゾーン内)に入れるという考え方。外野ポールに向かってノックを打つ、という練習を俺も一緒にやったね。普通ならスライスしたりフックしたりする打球が、あの人の場合はラインと並行に真っ直ぐ飛ぶ。実際の試合でもギリギリ切れてファール、みたいな打球は、ほとんど記憶にないでしょ?」

 氏いわく、落合がモットーとしたのは「野球の体は野球で作る」。春季キャンプでも、第1クールはひたすらノックを受けて下半身を作り込み、バットを握ることさえなかったという。「とにかくムダな練習はしない人。打撃練習では最初に内野の各ポジションにゴロを打つのがお決まりだったけど、その球も野手が微動だにしなくても取れるほど正確でね。要はどれだけ角度をつければ、塁間を抜けるかの確認作業をするわけです。それを俺なんかじゃ、到底、扱えないほど長いバットで自由自在にやってのけるんだから、ちょっと次元が違うよね」(前同)

 そして、80年代の半ば、歴代最多3度もの三冠王に輝く落合にさえ一目を置かれた“怪物”が出現する。それが清原和博だ。「1年目のキヨは、稀代の天才を間近で見てきた俺でさえ“超えるかも”と思えるほどスゴかったよ。その後は努力の仕方を少し間違えた節もあるけど、当のオチさんが酔っぱらって、“あいつはどんな選手になるんだろうな”って言っているのも、直接聞いたことがあったからね」(愛甲氏)

 他方、西武でコーチとして清原と接した伊原氏は、落合との違いをこう言う。「ものおじしない精神力の強さもあったし、順応性や適応力もズバ抜けたものを持っていた。ただ、落合にあったような“がめつさ”が、彼にはなかった。勝負ごとである以前に、お金を稼ぐのがプロ。その意識がもっとあれば、タイトルにも手は届いたはずですよ」

■“振り子打法”と“ゴジラ”の台頭は新時代の到来

 その後、時代は昭和から平成に。とりわけ“振り子打法”のイチローと“ゴジラ”の異名がついた松井秀喜の台頭は、新時代の到来を強く印象づけた。「松井に関しては、長嶋監督がマンツーマンで指導した“1000日計画”が有名です。シーズン中も素振りをさせ、その音でスイングの良し悪しを教え、松井の体に染み込ませました。ミスターにそこまでの決断をさせた大きな要因が、松井の並外れた体の強さ。高卒時点で“駒田徳広並み”の判定だったことが決め手になったと、もっぱらです」(前出の巨人軍関係者)

 ゴジラの1学年上であるイチローは高卒3年目だった94年にブレイク。現役だった愛甲氏、西武のコーチだった伊原氏は、ともに同一リーグの一員として、その衝撃を目撃した。伊原氏が言う。「これまでも言われてきたことですが、試合前のフリー打撃が本当にとてつもなかった。30本打てば、半分は柵を越えてくる。当時も西武はまだ強かった時期ですが、彼が打撃練習に入ると、ウチの選手たちも大半がベンチに座って、もうクギづけでね(笑)。試合でも内野ゴロを安打にされるわ、前に出れば抜かれるわで、ちょっと打つ手がなかったです。唯一の弱点はインハイでしたが、そこにビシッと投げられる投手も、なかなかいなかったですしね」

 ちなみに、そのイチローがプロ入りに際して唯一出した希望の条件が、背番号「51」。これは敬愛した“孤高の天才”前田智徳が、最初につけた番号でもあった。かつてイチローに「天才?それは前田さんのこと」とまで言わしめたのが前田だ。「師匠のオチさんも、“日本のプロ野球で教科書にすべき打者は前田”と公言していますが、彼のフォームには余計なクセがなく、ムダがない。まさに理想的なんだよね。俺もコーチとして野球を教えるときは、左なら前田、右なら鈴木誠也をお手本にしろ、といつも言ってるしね」(愛甲氏)

 その打撃は、チームの先輩だった“鉄人”衣笠祥雄をして「ケガがなければ3000本は打っていた」とも評されたほど。同じプロでさえも、つい「たられば」で語りたくなる天賦の才が彼にはあった。

■後楽園球場最後の本塁打

「そういう意味でも、この手の話題で吉村禎章の名前があまり出てこないのが俺は不満だね。彼は1学年下だけど、数少ない本当の天才。投手だったプロ2年目にファームで彼と対戦したことがあるけど、決めにいった外のスライダーを、モノの見事にレフト線に運ばれてね。“なんだ、こいつは!”と思ったから」(前同)

 吉村と言えば、87年の広島戦で起きた珍記録、2ストライク4ボールからの本塁打が、よく知られる。後楽園球場最後の本塁打としても記憶に残る一発だ。「あれは本人も実は分かっていたって話だし、おそらく“打てる”って確信があったから黙っていたんだと思うよ。当時のベンチで、そのことに唯一で気づいていたのが、同じく“天才”と呼ばれた篠塚(和典)さんだけだったというのも、面白いよね」(同)

 では最後に、現在進行形で活躍する現役選手では、どうか。多くの天才を現場で見てきた伊原氏が言う。「柳田悠岐は、ひと頃の“V字スイング”(ダウンスイングからのアッパースイング)から、もう一段階上がってきた感がありますし、今年で言ったら、なんといっても吉田正尚。東洋大の前監督(高橋昭雄氏)が同級生だった関係で学生時代から注目していましたが、当時も“あれは(モノが)違うぞ”と言われていてね。彼の打撃を見ていると、西鉄時代からの同僚だった天才の一人、大田卓司を思い出しますね」

 伊原氏の2学年下だった大田もまた、“天才”と評された小兵のスラッガー。だが、プロではたび重なる故障に泣き、実働18年で通算171本塁打に終わった未完の大器でもあった。「私らが寮で何百も素振りをしている横で、彼は10か20をブンブンとやって戻っていく。それでいて試合では誰より遠くに飛ばしてましたから、モノは違いましたよね。でも、肩だの腰だのと痛めてね。吉田のスイングも、腰には相当負担があるはず。ケガにだけは気をつけてほしいです」

 ケガに負けない強靭な肉体と精神力もまた、天才打者の不可欠な要素なのかもしれない。

「紫電一閃! 川上哲治、ON、清原和博、イチロー…プロ野球「天才打者伝説」」のページです。デイリーニュースオンラインは、王貞治落合博満長嶋茂雄イチロー巨人エンタメなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る