東京=江戸ではない!?江戸時代の有名な”アノ人”の過労死で決まった江戸の範囲

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東京=江戸ではない!?江戸時代の有名な”アノ人”の過労死で決まった江戸の範囲

現在の「都会」といえば間違いなく一番に挙がるのが東京。そして江戸時代の「都会」は江戸でした。昔の江戸がそっくりそのまま東京になったと思っている方もいらっしゃる事でしょう。

しかし実は江戸と東京の範囲は異なっていました。

弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図 Wikipediaより

江戸とは

江戸というのはもともと、関ヶ原の戦いの10年前に、徳川家康が豊臣秀吉によって左遷された田舎でした。当時の都は京都、そして豊臣の本拠地大阪でしたからね。

それに引き換え江戸は人もまばらで、「こんなところに住むの嫌だぁー!」と家康でも逃げ出したくなるようなズブズブの湿地帯だったのだとか。そこを何十年もかけて埋め立て、インフラを整え、町を作って行ったのです。

江戸を大まかにみると、江戸城背面の台地の一帯である「山の手」、江戸城前面に広がる埋立地「下町」に分けられます。ではこの「江戸」とはいったいどこからどこまでをいうのでしょうか。

もともと狭かった江戸

江戸時代の初期、寛永年間(1624〜1645)の地図を確認すると、江戸の範囲は現在の千代田区の東半分、中央区、港区の増上寺あたりまで。もともと江戸は約2里(7.8km)四方でしかなく、狭かったのです。

したがって今この範囲に住んでいる方は、自分の住まいは元祖江戸だと胸を張って言えそうです。しかし250年の江戸時代の歴史の中で、どんどん江戸は広がってゆきます。

きっかけは町奉行の過労死

当時、江戸の司法・行政を担当していたのは町奉行。遠山の金さんが有名ですね。今の東京都知事と警視総監、それに東京地方裁判所長・東京駅の駅長を兼務したような要職で、江戸全体の治安維持を受けもっていました。

この町奉行、激務のあまり過労死者が後をたたない恐ろしいポストでした。町奉行らの負担を軽減するためにも、江戸開闢から200年経った文政元(1818)年にようやく行政の範囲と江戸の範囲を決めようという事になりました。

江戸の範囲決定!

幕府は地図に赤い線を引き、その範囲内は江戸であると定めました。さらにもう少し狭い範囲に黒い線を引き、行政の範囲を定めました。

その外で起きた事件は遠山の金さんも知らんぷり、関東郡代の支配というわけです。

結論、江戸の範囲は江戸城内堀から4里(約15.7キロ)四方、すなわち今の千代田区、 中央区、港区、新宿区、文京区、台東区、墨田区、江東区、渋谷区、豊島区、荒川区全域と、それに品川、目黒、 北、板橋区の一部となりました。

さて、あなたのお住まいは「江戸」に含まれていましたか?

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