南北朝の英雄「二世の実像」【後編】“父は義貞”新田兄弟「武将伝説」 (2/3ページ)
尊氏が東国に逃れた弟を攻めるに当たり、南朝に背後を脅かされることを恐れ、表面上、降伏したに過ぎなかったものの、この和睦が功を奏し、京を息子の義詮に預け、自身は直義軍を打ち破って鎌倉に進撃。
翌観応三年正月に直義が鎌倉で死亡し、尊氏父子は北朝の内乱に勝利したが、南朝が当然、京の義詮に分裂以前の状態に戻すことを求めて軍勢を進め、同年閏二月二〇日、彼はここから撤退せざるを得なかった。
こうした中、一方の義興と義宗の兄弟はその直前の閏二月一五日、新田の本拠である上野国で挙兵。義宗は信濃に亡命していた宗良親王(後醍醐天皇の皇子)を奉じて尊氏を追い、父である義貞が鎌倉幕府を倒した際の行軍路を踏襲して鎌倉に入った。しかも、義貞が鎌倉に入るまでに一四日を要したのに対し、兄弟はわずか三日でこれを成し遂げ、閏二月一八日にすぐさま尊氏を追撃。
二〇日に人見原(府中市)、金井原(小金井市)でその軍勢と戦い、義宗が鎌倉に撤退した一方、義興が尊氏を石浜(台東区)まで追い詰めて自害寸前にまで追い込んだが、二八日に笛吹峠(埼玉県嵐山町)などで巻き返した軍勢に大敗する。新田兄弟はこうして一族の地盤の一つだった越後などに撤退。一連の合戦は武蔵野合戦と総称され、前述の北陸王朝の樹立を狙ったとされる父とは異なり、兄弟の軍事行動が観応の擾乱に乗じた南朝の京制圧と軌を一にしていたことから、二人は紛れもないその忠臣と言える。
こうした中、義興は七年後の正平一四年(1359)一〇月、足利方の策謀にはまり、武蔵国矢口の渡し(大田区矢口、もしくは稲城市矢野口)で命を落とし、この話は「神霊矢口の渡し」という伝説となり、今も次のように語り継がれている。
■義興も義宗もいずれも南朝の忠臣を貫いた!
当時、新田勢の蠢動に悩んでいた鎌倉公方足利基氏(義詮の弟)の執事だった畠山国清(武蔵国守護)が、竹沢右京亮という武蔵の武士と姦計を巡らせた。
そして、義興を右京亮の屋敷に招いて美女と酒で篭絡した隙に討ち取ろうとしたが、失敗に終わり、続いて武蔵国稲毛の領主・江戸長門を巻き込み、再び策謀。