これも戦国女性の定め…相次ぐ悲劇の中、最期まで武田信玄を支え続けた三条夫人

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これも戦国女性の定め…相次ぐ悲劇の中、最期まで武田信玄を支え続けた三条夫人

甲斐国(現:山梨県)の戦国大名として知られる武田信玄(たけだ しんげん。晴信)公の正室として知られる三条(さんじょう)夫人

高貴な公家の娘として京都から地方へ嫁いで来た(周囲を田舎者と見下している?)からか、創作ではとかく高飛車なキャラに描かれ、いささか辟易した信玄公が諏訪御料人(すわごりょうにん)をはじめとする優しく美しい側室たちに心惹かれ……となりがちです。

生涯にわたり、信玄公を支え続けた三条夫人(イメージ)。

しかし、史料を見る限り三条夫人についてそのような言動は遺されておらず、むしろ春の陽光を思わせる穏やかで温かな人柄や、信玄公との仲睦まじさが伝えられています。

彼女も戦国女性の例に洩れずと言うべきか、苦難や悲痛に満ちた人生を辿りましたが、それでも健気に信玄公を最期まで支え続けました。

今回は、そんな三条夫人のエピソードを紹介したいと思います。

幸せな新婚生活、5人の子供に恵まれるが……

三条夫人は大永元1521年、三条公頼(さんじょう きんより)の次女として京都で生まれます(本名や母親は不明)。

三条家は摂関家に次ぐ名門中の名門(清華家)で、公頼も左大臣という高位にあったものの、戦国乱世にあって生活は苦しく、他家と同じく娘を地方の守護大名に嫁がせることで経済支援を受けていました。

守護大名としても中央の公家とコネが作れるため願ったり叶ったりで、甲斐国の守護大名であった武田信虎(のぶとら)もまた、嫡男・晴信の元服(成人)に際して三条家の姫を嫁(息子の妻)に迎えます。

※一説には、晴信は元服前に武蔵国の大名・上杉朝興(うえすぎ ともおき)の娘を娶っていたとも言われ、子供がないまま早くに亡くなっているようです。

若き日の晴信。Wikipediaより。

時は天文五1536年7月。三条夫人と晴信は共に16歳、まだあどけなさが残るおままごとみたいな夫婦だったことでしょうが、二人の前途に立ちふさがる運命など、まだ知る由もありません。

夫婦仲は円満で、結婚三年目の天文七1538年に念願の嫡男・太郎(後の武田義信)が誕生。続いて天文十1541年には次男の次郎(後の海野信親、竜芳)も生まれますが、次郎は生まれつき目が悪く、ほどなく失明してしまいます。

その後も天文十二1543年に三男の三郎(後の西保信之)、同年中に長女(後の黄梅院)と相次いで生まれ、やがて次女(後の見性院)と、合計3男2女に恵まれるには恵まれました。

ただし、この中で天寿を全うできたと言えるのは、末娘(次女)ただ一人です。

父と子供たちを次々喪い……

「父上……っ!」

不幸の始まりは天文二十1551年。父・三条公頼が周防国(現:山口県東部)の大名・大内義隆(おおうち よしたか)の元へ身を寄せていたところ、その重臣・陶隆房(すえ たかふさ)の謀叛が起こした謀叛に巻き込まれ、命を落としてしまいます。

切腹する義信(イメージ)。

続く天文二十二1553年には三郎が11歳で夭折、永禄十1567年には嫡男の太郎が謀叛の疑いによって切腹させられてしまいました(享年30歳)。幼い我が子を喪うのは辛いものですが、立派に育て上げ、将来を楽しみにしていた我が子を喪うのも、また違う哀しみと言えるでしょう。

永禄十一1568年には信玄公が駿河国(現:静岡県東部)の今川氏真(いまがわ うじざね)を攻めたことによって武田(甲斐)・北条(相模)・今川(駿河)の三国同盟が破綻。

政略結婚のため(天文二十三1554年から)北条の元へ嫁いでいた長女は、仲睦まじかった夫・北条氏政(ほうじょう うじまさ)と引き裂かれ、永禄十二1569年、傷心の内に亡くなってしまいました(享年27歳)。

相次いで子供たちを喪った三条夫人は、盲目の次男・竜芳と重臣・穴山梅雪(あなやま ばいせつ)に嫁いだ次女の身を案じながらも病魔に侵されていた信玄公を支え続けます。

闘病と陣頭指揮を続ける信玄公に傍近く仕えたため、やがて自身も労咳(肺結核)に感染してしまい、元亀元1570年7月28日、50歳の生涯に幕を下ろしたのでした。

エピローグ

信玄公の死後、跡目を継いだ武田勝頼(かつより。諏訪御料人の子)の代に武田家は滅亡。天正十1582年3月、甲斐国へ乱入した織田信忠(おだ のぶただ。信長の嫡男)らによって出家していた竜芳(次郎)は殺されてしまいます。

次女は徳川家康(とくがわ いえやす)によって身柄を保護され、江戸時代初期の元和八1622年まで生き永らえることができました(夫・穴山梅雪は「本能寺の変」のどさくさで殺されています)。

世に美人薄命と言うように、とかく若くして亡くなった者には同情が集まりがちですが、長く生きればそれだけ辛いことも多いもの。

戦国女性の習いとは言え、皆それぞれに辛い人生を歩んだ(イメージ)。

不幸を比べても意味はないものの、我が子に将来の希望を託して世を去った諏訪御料人よりも、相次いで我が子を失い、将来の希望を絶たれてしまった三条夫人の方が、より深い悲しみを味わっていたように思えてなりません。

そんな三条夫人の墓は円光寺(現:山梨県甲府市)にあり、今も信玄公の遺徳を慕う人々によって供養されています。

※参考文献:
上野晴朗『信玄の妻―円光院三条夫人』新人物往来社、1990年

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