原辰徳、長嶋茂雄、星野仙一…プロ野球界を震撼させた「名言&暴言」舞台裏

日刊大衆

写真はイメージです
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 厳しい勝負の世界に生きる者の言葉は、ファンの心を揺さぶり、いつまでも生き続ける。言葉でつむいだ球界秘史――!!

 ペナントも終盤戦に突入した。セ・リーグは原辰徳監督率いる巨人が独走状態、順調にマジックを減らしている。

「今季の原監督の采配は外れなしで、球界では“神采配”と呼ばれています。なぜ、かくも強いのか。その答えが集約されていたのが、9月21日の広島戦の勝利監督インタビューで、原監督が語ったこの言葉です」(スポーツ紙巨人担当記者)

〈我々は個人軍ではない。巨人軍なんです〉

 この日、原監督は、先発した直江大輔が5回に一死、一、二塁のピンチを招くと、躊躇なく投手を交代。

「直江は、あとアウト2つで勝利投手の権利がもらえました。6対2と4点リードしている場面でしたので、普通は続投させるはずです。この継投に象徴されるように、今季の原監督は勝利のためには“鬼采配”を辞さない覚悟なんです」(前同)

 長嶋茂雄監督時代にヘッドコーチに就任し、帝王学を学んだとされる原監督。ファンやマスコミに対するサービスなど、両者はよく似ているとされるが、指揮官として非情に徹することができるのは、原監督のほうなのかもしれない。

「怖いばかりかと思いきや、原監督にはお茶目なところもあります。師匠のミスターには〈鯖は魚偏にブルーですね〉など、独自のミスター語がありましたが、それは原さんも同じ。〈イロハのニ〉とか、〈目標は1つだけ。1つはペナント優勝。2つ目は日本一〉などの発言も(笑)。ただ、今季はそれを補って余りある凄みがありますね」(同)

■我が巨人軍は永久に不滅です

 原監督の師匠である長嶋氏の名言と言えば、引退式での〈我が巨人軍は永久に不滅です〉が有名だ。

「余談ですが、引退試合の日、後楽園球場を埋めた大観衆の中には、東芝府中の選手だった落合博満さんもいました。会社を休んで球場に駆けつけ、外野スタンドから“やめないでくれ!”と絶叫したといいます。ミスターは引退後、すぐに監督に就任し、V9後の巨人の指揮を執りましたが、成績は低迷。1年目は球団初の最下位も経験します」(ベテラン記者)

 結局、長嶋氏は6年間指揮を執るも、1980年のシーズンオフに突如、監督を解任されてしまう。

「解任はミスターには寝耳に水だったはずです。記者会見で絞り出すように〈男としてケジメをつけようと思いました〉と言ったのが、印象的です。“悔しくて、その日は眠れなかった”と聞きました」(前同)

 無念の解任劇で巨人と決別したかにも見えたため、長嶋氏のもとには、大洋(現DeNA)や西武から監督のオファーが来たという。

「ただ、ミスターは絶対に引き受けなかった。それはいつか監督に返り咲いて、日本一になってやるというリベンジの気持ちがあったからです」(同)

 “ミスタープロ野球”こと長嶋氏の球界人生は、栄光だけではないのだ。

 今年2月に急逝した野村克也氏も、名言は数多い。中でも氏の野球哲学が詰め込まれているのが、〈勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし〉だろう。

「ノムさんが監督としてもっとも充実していたのが、ヤクルト時代(90〜98年)でしょう。各種データを駆使して戦う“ID野球”をチームに叩き込んだ結果、9年でペナント優勝4回、日本一3回に輝きました。ヤクルトの監督時代、ノムさんが折に触れて口にしていたのが、この言葉なんです」(球界関係者)

■闘将星野のキャッチフレーズ

 選手、監督時代を通じて闘志をムキ出しで戦ったのが、故・星野仙一氏だ。その闘将星野のキャッチフレーズとなったのが、〈勝ちたいんや〉だろう。2002年に阪神の監督に就任した星野氏は、2年目のキャンプイン前日のミーティングで、「勝ちたいんや。ファンを喜ばせたいんや」と熱弁。これをチームスローガンとし、見事ペナント優勝を飾っている。

「星野さんは後年、テレビ番組で、“明石家さんまさんからもらった色紙に書かれていた言葉をヒントにした”と告白しています。そこに書いてあった言葉が“勝ちたいんや”だったんです。ただ、さんまさんによれば、これはゴルフでイカサマをした坂東英二さんをとがめたときに、坂東さんが逆ギレして叫んだ言葉だったとか(笑)」(スポーツ紙阪神担当記者)

 元は“珍言”だったのだ。

「星野さんは11年から4年間、楽天の監督も経験しています。13年には“負けないエース”田中将大の活躍もあり、監督として初の日本一を達成しましたが、裏話があるんです」(前同)

 日本シリーズは星野楽天と原巨人が激突し、白熱の戦いは3勝3敗で第7戦までもつれ込んだ。

「6戦目はエース田中が先発、完投するも惜敗。最終戦には田中を投入できないと思われたが、星野さんが田中に〈明日は無理やろな……〉と囁くと、これに発奮した田中は“やれます!”と即答。敗戦に打ちひしがれるエースの闘争心に、火をつけたんです」(同)

 第7戦は美馬学、則本昂大の継投で9回まで巨人打線をゼロ封。9回には、前日160球を投げた田中が抑えとして登場し、二死、一、二塁というピンチを招くも、代打の矢野謙次を三振にしとめ、楽天を勝利に導いている。星野氏の老獪なひと言が、楽天に初の日本一を呼び寄せたのだ。

 選手のやる気を引き出すという意味では、故・仰木彬監督も定評があった。埋もれていたオリックス時代のイチローを、仰木監督が見出したのは有名だ。

「前任の土井正三監督は、“あんな打ち方ではダメ”と使おうとしませんでしたが、仰木さんが監督になるや、スタメンに抜擢。イチローは大ブレイクしました。そのときの仰木監督の言葉が、〈どんな格好でもヒットを打てれば使うよ〉です」(スポーツ紙デスク)

 “仰木マジック”とも称された、球界屈指の名伯楽だった。

 イチローと並ぶ天才である落合博満氏。3度の三冠王に輝いた選手時代の至言が、〈ヒットはホームランの打ち損ない〉というもの。

「並みの打者なら“ヒットの延長がホームラン”と考えるが、落合は逆。ロッテ時代には〈全打席、全球バックスクリーンを狙っていた〉というから、モノが違いますよ」(球界OB)

■ストライクは全部ホームラン

 同じことは、松井秀喜氏にも言える。

「松井は、打撃好調だった巨人時代の2001年に、〈理想だけど、ストライクは全部ホームランにしたい〉と話しています。彼は努力の人。天才肌ではなく、どちらかというと不器用でしたが、努力で大成したんです」(前出のデスク)

 広島の主力打者として活躍した“孤高の天才”前田智徳氏にも、ファンの心をえぐった名言がある。

「95年のヤクルト戦で、走塁の際に右アキレスを断裂した前田は、その日〈いっそもう片方の足も切れてほしい〉と語ったんです。そうすれば、左右のバランスが取れると考えたんでしょう。あの落合さんをして、“前田のバッティングは無駄がない究極の形”と言わしめた天才でしたが、ケガに泣いた選手でした」(前同)

 完璧を求めるあまり鬼気迫る名言を残した前田のような選手がいる一方、野球解説者の江本孟紀氏のように、現役時代の“問題発言”が語り継がれる選手もいる。81年8月26日、甲子園球場で行われた阪神対ヤクルト戦。阪神の先発だった江本氏は8回に3点を取られて降板したが、当人はもっと早く交代させてほしかったという。遅きに失した投手交代に、ロッカーに引き揚げた江本氏は、こう吐き捨てた。

〈ベンチがアホやから〉

 当人は、事の真相を、こう明かしてくれた。

「当時の甲子園球場はロッカールームが2階にあったから、ベンチからだと、かなり距離があってね。今と違って、降板した投手は荷物を持って引き揚げるのが当たり前だったから、ロッカーに戻りながら、誰に言うでもなく“バカ”とか“アホ”とか、雑言を吐いたものです。みんな、そうでしたよ(笑)」(江本氏)

 とはいえ、当時は「ベンチ=采配」を「アホ」とこき下ろし、監督批判のタブーを犯したと問題視された。

「世間には、まるで私が監督の中西(太)さんに向かって言ったかのように伝わってしまいましたけど、特定の誰かに言ったわけではない。まあ実際、“アホや”と思いましたし、監督との関係もギクシャクしていましたけどね(笑)」(前同)

 このひと言がもとで、江本氏は球団から10日間の謹慎を言い渡され、引退を決意する。

「翌年から別の球団でやるにしても35歳。プライドもあったしね。自分から引退を申し出たんです」(同)

 江本氏の暴言は、生き馬の目を抜く球界に生きる男ゆえ、口をついたのだろう。

 最後は、大日本東京野球クラブ(後の巨人軍)の契約第1号選手である三原脩氏の言葉で締めたい。

〈アマは和して勝ち、プロは勝って和す〉

 非情な勝負の世界に生きる者の口から飛び出した言葉には、どれも万感の思いが詰まっている――。

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