江戸時代、幕末の日本で坂本龍馬を護衛した凄腕の槍術使い「三吉慎蔵」とは【後編】

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江戸時代、幕末の日本で坂本龍馬を護衛した凄腕の槍術使い「三吉慎蔵」とは【後編】

寺田屋事件を乗り越え、第二次長州征伐に勝利した長府藩の武士「三吉慎蔵(みよししんぞう)」

今回は【中編】に続き、明治維新に尽力し坂本龍馬とも親交の深かった三吉慎蔵の生涯をご紹介する。

これまでの記事

江戸時代、幕末の日本で坂本龍馬を護衛した凄腕の槍術使い「三吉慎蔵」とは【前編】

江戸時代、幕末の日本で坂本龍馬を護衛した凄腕の槍術使い「三吉慎蔵」とは【中編】

龍馬との盟友関係

寺田屋の一件以降、盟友関係を築いた慎蔵と龍馬。

1867年。龍馬は自身が立ち上げた「亀山社中(海援隊)」の拠点を下関に置いた関係で、再び慎蔵と再会する。そして同行していたお龍の面倒を慎蔵に託している

4月になり、いろは丸事件(イギリスで建造され、大洲藩から海援隊が借り受けた蒸気船いろは丸と、紀州藩の明光丸が瀬戸内海で起こした衝突事故)が起こると、翌月には龍馬から慎蔵宛にお龍の後事を託す手紙(※一部抜粋「万一のご報知仕候時ハ、(略)愚妻おして尊家に御養置可被遺候よふ」)が届いている

同年11月、近江屋事件で龍馬が暗殺される。慎蔵は生前の約束を守りお龍の面倒をみた。翌年には土佐にある坂本家にお龍を送り届けている。

明治維新後

明治に入ると長府毛利家家扶(皇族や華族の家で、家務を担当する立場)として上京。その後、宮内省に出仕し北白川宮能久親王の家扶となる。

1890年。東京での仕事を退官すると、故郷の長府へ戻った。1901年没。享年71。墓所は山口県下関市にある功山寺。

三吉慎蔵の長男「米熊(よねくま)」(Wikipediaより)

慎蔵の家族

妻・伊予との間に子が3人いた。慎蔵の家族は龍馬の妻・お龍とも一時期同居していたため面識があったという。長男の「米熊(よねくま)」は養蚕業の教育者として活躍し、蚕業学校の校長や教授を歴任した。後に農学博士を授与されている。

長女の「茂子」は3歳で早世し、次女の「友子」も短命で慎蔵より2年早く生涯を閉じている。幼い頃はお龍に子守をされていたともいわれる。長男の米熊と次女の友子は結婚し、子供がいたため三吉家の血統は続いている。

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