優柔不断で滅亡? 戦国大名・朝倉家最後の当主「朝倉義景」の人物像【前編】

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優柔不断で滅亡? 戦国大名・朝倉家最後の当主「朝倉義景」の人物像【前編】

戦国期。平安時代末期から続く名門一族「越前朝倉氏」は、織田信長率いる織田軍によって本拠地を蹂躙され滅亡した。朝倉氏滅亡時の当主「朝倉義景(よしかげ)」には様々な言い伝えが存在するが実際はどのような人物であったのか。

今回は優柔不断との評価もある朝倉義景の人物像を考察する。

朝倉家滅亡の経緯①

1565年。室町幕府13代将軍「足利義輝」が京都で実権を握っていた三吉勢に暗殺されると、幕臣の間には弟の「覚慶(後の室町幕府15代将軍・足利義昭)」を次代将軍に擁立する動きが見え始める。

1566年。還俗して越前国の義景の元へ移った義昭は、上洛の後ろ盾として義景に助力を要請した。しかし、義景が明確な上洛の意思を示さなかったため義昭の滞在は長期に及ぶ。1568年。義昭が越前の一乗谷に止まっている間に、三吉勢は対抗馬として擁立していた「足利義栄(室町幕府14代将軍)」の将軍宣下を成し遂げる。

その後、明智光秀の仲介によって義景の元を離れ織田信長を頼った義昭は、義栄の病死に伴い足利幕府15代将軍に就任した。

足利家15代将軍「足利義昭」(Wikipediaより)

朝倉家滅亡の経緯②

同年、信長は将軍義昭の名で義景に上洛を指示。2度の命令を拒否した義景に対して挙兵する。信長と義景の対立は決定的となり、義景は1573年までの5年間に武田氏や浅井氏、石山本願寺と結び幾度となく信長と戦っている。

一時は攻勢とした朝倉軍だったが、徐々に織田軍の勢いの前に劣勢に転じてゆく。
迎えた1573年。近江に進行した織田軍に敗北した朝倉軍は越前に撤退。一乗谷を目指す帰路において、織田軍の激しい追撃に遭い致命的な損傷を受けてしまう。

一乗谷に帰還した義景の取り巻きは数人の騎馬隊だけだったという。最後は一乗谷に雪崩れ込んだ織田軍からの圧力に屈して自刃した。義景の死後、血族も連座して処刑されたことによって、11代続いた戦国大名家朝倉氏は滅亡した。

滅亡の原因は義景の器量?

朝倉氏は結果的に織田信長に滅亡に追い込まれてしまう。しかし、朝倉氏には他国と連携し信長を追い詰めた時期もあった。信長を討つことが出来なかった理由には、義景のここぞという好機をものにできない性分も大きく関係していたようだ。

【中編】に続く

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