これが源氏武者の生き様だ。源頼朝の兄弟たちが迎えた悲運な最期【後編】 (2/3ページ)
全成と頼朝の合流は兄弟の中でも最初であったので、頼朝は泣いて喜びました。
また頼朝の信任も深かったようで、北条政子の妹である阿波局を妻に娶っています。
その頼朝が正治元年(1199)に亡くなると、全成は頼朝の孫である実朝を擁立する北条家と結び、頼家(頼朝の嫡男)たちと対立しました。
しかし全成は先手を打たれ、51歳を迎えた建仁3年(1203)に謀反人として頼家たちに捕らえられます。そして常陸国へ配流と同時に頼家の家臣、八田知家に謀殺されました。
全成は駿河国阿野荘を所有していたので、その縁から阿野の姓を使用していたと思われます。
八男・源義円義朝の八男義円(ぎえん)は幼少期に全成と同じく仏門に入り、円成と名乗っていました。頼朝挙兵後は頼朝に合流し、父義朝の義の一字をとって義円と名を変えます。
そして治承5年(1181)に叔父の源行家が挙兵すると、それを支援する為に頼朝の命令で行家の元へ向かいます。義円は行家と共に尾張、美濃国国境近くの墨俣川(すのまたがわ)を挟んで平氏と対峙しました(墨俣川の戦い)。
この戦いの兵数は源氏約6,000人、平氏約30,000人と圧倒的に源氏に不利だったので、行家たちは奇襲を企てます。墨俣川を渡って平氏方の陣に着いたものの、水に濡れている兵士が源氏と見破られてしまい、返り討ちを受けてしまいます。
その時に義円は高橋盛綱と交戦中に討ち取られ、27歳で討死しました。
九男・源義経常盤御前から産まれた義経は全成と義円を同母兄に持っていました。それ故か平治の乱以降は僧になるべく鞍馬寺に預けられます。しかし15歳を迎えた時、義経は鞍馬寺を抜け出し奥州藤原氏の元へ向かいました。