これが源氏武者の生き様だ。源頼朝の兄弟たちが迎えた悲運な最期【後編】 (3/3ページ)

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源義経/Wikipediaより

そして治承4年(1180)に頼朝が挙兵すると、頼朝と対面を果たすと指揮下に下ります。

義経は兄範頼と共に、寿永3年(1184)に宇治川の戦いで木曽義仲を追い詰め、同年の一ノ谷の合戦では、鵯越えの逆落としの呼び名で知られる奇襲で平氏を大混乱に陥らせ、勝利に導きました。

さらに治承4年(1185)の屋島の戦い、壇ノ浦の戦いを経て、平氏を滅亡させた義経は大功を果たした立役者となりました

その後義経は頼朝の許可なく後白河法皇から官位を叙任したことで、頼朝から不信感を買ってしまいます。弁明をするために頼朝のいる鎌倉へ義経は向かいますが、門前払いされてしまいます。それでも頼朝は最後のチャンスとして、義経に叔父の源行家の討伐を命じますが、断ったことで2人の対立は避けられないものとなりました。

義経は頼朝の手から逃れるために、藤原秀衡(ふじわらの-ひでひら)を頼って奥州へ向かいます。しかし秀衡が病没し泰衡(やすひら)が後を継ぐと、奥州藤原氏は頼朝の圧力に屈してしまいました。

そして文治5年(1189)に泰衡の軍勢によって義経は自身の住む衣川館を襲撃されます(衣川の戦い)。館を囲まれた義経は戦うこともなく自害。31歳の生涯を終えました。

最後に

頼朝の兄弟たちは多くは討死という最後を迎えています。また他の者も処刑や自害といった最後を迎えており、頼朝たちは天寿を全うせず生涯を終えたと思われます。

しかも半数が若くして最後を迎えているので、打倒平氏の悲願達成には兄弟たちの屍を越えなければならなかった悲しい運命を、源氏は迎えていたと感じてしまいました。

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