日本初の実測地図を作った偉人!伊能忠敬「全国測量17年間」の壮絶 (2/3ページ)

日刊大衆

 当然、五〇歳で新たに学問を志した忠敬は非常に貪欲で、入門後に天体観測機器などを買い入れて隠宅をさながら天文台のようにすると、難解な専門書を昼夜、読み耽けり、日食や月食が起きるタイミングを計算した。あまりの熱心さに師匠である至時も舌を巻き、天体の運行の推測や暦などの計算を意味する「推歩先生」と呼ぶようになったという。

 ところが、忠敬は師匠である至時が当時、幕府の天文方となって改暦を命じられる中、全国を測量して回り、実測地図の作成に残りの人生を捧げ始めたことになる。

 いったい、なぜか。これは忠敬の生涯における最大の謎で、彼が幕府に蝦夷地(北海道)の測量を願い出た際の願書にはこうある。「在所(佐原)にてははかばかしい業績を残せず、江戸で高橋作左衛門(至時)の門弟になりました。(中略)しかし、天文観測のために身分不相応な機器まで買い、このままでは世間にも相すまぬことなので、後世の役に立つため地図を作りたいと思い至りました」(『測量日記』)

 人生のゴールが見え始めた年齢になり、世の中の役に立ちたいと考える気持ちは十分に理解できるものの、それがなぜ、地図の作成だったのかは判然としない。

 その一方で、忠敬の晩年の著書(『仏国暦象編斥妄』)には、その理由が次のような趣旨で書かれている。忠敬は黒江町の隠宅で天体観測を行い、ここの緯度を把握する一方、至時のいた暦局(浅草)のそれも測定。結果、その差が一分半と判明したことから、その正確性を確かめるため、黒江町と浅草の距離を実測しようとした。

 ただ、正確な測量には間棹や間縄に加え、各種測量器具が必要。むろん、江戸府内で許可もなく縄を張ることはできず、歩測に頼らざるを得ないが、これではむろん、誤差が生じてしまう。

■日本全国を測量する中現地トラブルもあった

 一方、当時は北方防備が叫ばれるようになり、蝦夷地測量の必要性が高まっていたことから、至時と忠敬の子弟は幕府に願い出て、寛政一二年(1800)、第一次測量(蝦夷地、東北)が実現した。

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