流石の「大うつけ」もためらった?若き日の織田信長が「上総守」を名乗らなかった理由とは (2/2ページ)

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※こういう親王殿下が太守を務めた国を「親王任国(しんのうにんごく)」と言い、他にも上野国(現:群馬県)や常陸国(現:茨城県)がそうでした。

しかし、戦国時代になると桓武平氏の流れを汲まない今川義元(いまがわ よしもと。清和源氏)が上総介を名乗ります。桓武平氏の末裔を自称する織田家としては、面白くありません。

若き日の織田信長。自分の方が「桓武平氏のリーダーに相応しい」と、義元に張り合うべく上総「守」を自称するが……。

若く血気盛んな信長は「だったら、俺は義元より上位の『上総守』を名乗ってやる!」と対抗意識を燃やして張り合ってはみたものの、後から「それは流石にまずいです」と諫められて、直したものと思われます。

(信長はそれを知らず、慣習に逆らってまで「守」にこだわるつもりはなかったようです)

知っていれば事前に止めたでしょうから、きっと周囲の者たちは何も相談されておらず、信長が家督を継承すると同時に「今日から俺は織田『上総守』と称する!」などと宣言されて、さぞかし慌てふためいたことでしょう。

「殿、上総『守』はまずいですぞ……理由はこうこう云々かんぬん……」

「え、そうだったのか……でも、もう何枚か文書を出しちゃったな。むむむ……」

「何がむむむですか。古来『過而不改、是謂過矣(意:問題なのは、ミス自体よりそれを直さないことだ)』と申しますゆえ、今後は『上総介』にお改め下され」

「……解った」

こうして渋々「上総介」に直した信長は、やがて桶狭間の戦いで「上総介は俺一人で十分」とばかりに義元を撃破し、天下布武への道のりを歩み出していくのでした。

※参考文献:
柴裕之 編『戦国大名と国衆6 尾張織田氏』岩田書院、2011年12月
木下聡『中世武家官位の研究』吉川弘文館、2011年11月

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