ペリーの黒船に忍び込んだ男!?幕末に実在していた最後の忍者・澤村甚三郎
戦国時代、伊賀や甲賀をはじめとする多くの忍者が全国各地で活躍しました。彼らの多くは戦乱の終結と共に歴史の表舞台から姿を消します。
しかし忍者が完全にいなくなったわけではありません。
幕末、一人の忍者が来航した黒船に乗り込んでいました。
伊賀の無足人
澤村甚三郎保祐(さわむら じんざぶろうやすすけ)は、幕末に実在した伊賀国の忍者です。当時、伊賀国は伊勢藤堂藩の領地であり、甚三郎も無足人として生活していました。
無足人は、名字帯刀を許された郷士(土豪、上級農民)です。通常の藩士のように禄(仕事をせずに藩から貰える給料)を受けられません。しかし役料(仕事によって得られる給料)は得ることが出来ました。
その他に賦役(労働によって支払う税)も免除され、紬や絹の着物を着用する許可など様々な特権が与えられていました。
無足人は有事において軍役に付くことが想定され、一年に一度の「武芸一覧」のために研鑽を積んでいました。これは藩主に自分の技を見えるという催しです。その中には家伝の火術を披露するなど、伊賀忍者の流れを彷彿とさせるものもありました。
嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航(写真:ウィキペディア)
彼らの多くは平時に大庄屋として村々を取りまとめ、裁判を行うなど、藩の民政に関与する存在でした。この甲斐あってか、幕末まで藤堂藩では一揆は起きていなかったと言います。
日本で最後の忍び働き嘉永6(1853)年、浦賀にペリー率いる黒船艦隊が来航して来ました。さらにペリー艦隊は、翌年の安政元(1854)年に日米和親条約締結のために再度来航します。『隠密用相勤候控』『澤村家由緒書』によると、この時甚三郎にも潜入の命令が下ったといいます。
ただし甚三郎は、忍者装束で潜入したわけではないようです。
安政元年の時に、ペリー艦隊は日本側の人間を艦隊に招待して饗宴を催しています。同時に船内の見学も許していました。甚三郎は、この時に随員の1人として乗り込んだものと考えられます。
ここで甚三郎は艦隊の船員たちから聞き込み調査などを行ったようです。
下船後、甚三郎は黒船の中からある品物を入手して来ました。まずはパン2個。このうち一個は、藩主の息子に求められて献上したと記録にはあります。次いで、タバコ2本とロウソク2本。これらは開港後は珍しい物ではなく、その後紛失したようです。
最後に文書2通を手に入れてきています。その文章もご紹介しましょう。
「Stille water heft deist ground」
こちらの1通は「音のしない川は水深がある」ということわざが記されてあり、綴り間違いがありました。
「Engelsch Meidai in de bed Fransch meid in deKeuken,Hollandsch meid de huishoulding」
「イギリス女はベッドが上手、フランス女は料理が上手、オランダ女は家事が上手」と英語で書いてあります。綴りが間違いだらけなので、下級船員のふざけた言葉のようです。
この甚三郎の任務は、記録上確認できる最後の忍び働きとされています。残念ながら重要な情報は得られませんでしたが、幕末にも忍者は存在していました。
ある意味、世界と関わりを持つ働きをしていた忍者では初めてかも知れません。
参考文献:
戸部新十郎 『忍者と忍術』 中央公論新社 1996年 山北篤 『図解 忍者』 新紀元社 2015年日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan