打倒!織田信長に西国を放浪。室町幕府最後の将軍「足利義昭」の執念【後編】
信長と共に上洛を果たし室町幕府15代将軍の座についた「足利義昭」。しかし、2人の関係性には徐々に亀裂が入り最終的には敵対するに至る。【後編】では決別後の義昭と信長の関係性をご紹介する。
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三方ヶ原での大敗によって勢いづいた反信長勢力に加担する形で挙兵した義昭。
1573年。形勢不利と見た信長は、義昭に対して和睦の要請を申し出るが義昭はこれを拒否した。信長は義昭追討の兵を挙げ京都に侵攻するが、天皇の勅命で和睦している。
この時期の信長は四方を敵に囲まれて抜き差しならない状況であり(第二次信長包囲網)、反信長勢力にとっては信長を討つ絶好の機会であった。
槙島城の戦いしかし、信長にとって脅威である甲斐国の「武田信玄」が1573年の4月に死亡すると潮目が変わり始める。
義昭は約3ヶ月後に和睦を反古にして再挙兵し京都の槙島城に籠る。しかし、幕臣の寝返りや近臣の降伏が相次ぎ、槙島城も信長軍に包囲されたことを受け、7月に降伏した。
義昭がどの段階で信玄の死を知ったのか定かではないが、信長にとって信玄の死は幸運であり、三方ヶ原の戦いにおける武田軍の勝利に呼応する形で挙兵した義昭にとっては不運であった。
京都追放
信長は義昭を殺さずに京都を追放している。将軍殺しの汚名を避けたといわれているが真意は定かでない。京都を追われた義昭は大阪の堺や和歌山の紀伊を経た1576年、毛利氏を頼って広島の鞍に移る。
京都を追われた義昭だったが、足利将軍職の地位は健在で信長の支配が及ばない西国においては足利将軍家を支持する武家も存在していた。現に義昭は鞆を拠点に信長追討の御内書を全国の大名に送っている。鞆の地は都落ちした義昭が政務を行ったことから「鞆幕府」と呼ばれた。
信長の死と京都帰還鞆で打倒信長の執念を燃やす義昭だったが、1582年に信長は本能寺の変で命を落とす。毛利氏を頼って上洛を試みるも、信長の後を受けて台頭した「羽柴秀吉」に毛利輝元が臣従したことによって叶わなかった。
1587年。九州平定を目論む秀吉と対面後に京都へ帰還。約15年ぶりに京都の地を踏む。その後は将軍職を辞して受戒した。秀吉との関係性は良好であったという。
1597年死去。享年61。
信長に対しては異常なまでの執着を見せた義昭だったが、信長亡き後は、京都復帰を示唆した秀吉と友好関係を維持した。室町幕府復権に動いた記録もなく、秀吉から槙島に領地を与えられている。
室町幕府滅亡の時期には諸説あるが、義昭は1588年まで征夷大将軍の地位にあったとされる。義昭の将軍辞任をもって室町幕府の滅亡と見ることもできるが、いずれにしても足利義昭をもって200年以上続いた室町時代は終焉した。
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