僧侶や陰陽師の力、借りちゃった!好きな男を手に入れるまで諦めなかった平安貴族・藤原頼長の執念
博識だったことで日本一の大学生(だいがくしょう)と称された藤原頼長は律令に重きをおき、綱紀粛正のためには手段を選ばない諦めの悪い性格から悪左府の異名も持っていました。
しかし、一見堅物とも見て取れる頼長が男色を好んでいたことはご存知だったでしょうか。
今回は男色における頼長を赤裸々に紹介したいと思います。
手紙の返事を貰うために僧侶を呼ぶ頼長は生涯で藤原忠雅や藤原為通(ふじわらの-ためみち)といった数多くの男性と関係を結びました。また相手は全員貴族なので、貴族の間でも男色が一種の文化として根付いていたと思われます。
その中で頼長の一番のお気に入りは藤原隆季(ふじわらの-たかすえ)でした。
隆季は父が鳥羽天皇の寵臣だったことが影響し、7歳で従五位下となった異例の出世を遂げ、池禅尼(平清盛の母)の従兄弟ということもあり、平氏と友好関係を築いた人物です。
また自身の和歌が勅撰和歌集である『詞花和歌集(しかわかしゅう)』に選ばれるくらい和歌に精通していました。
頼長は隆季と関係を結ぶために康治2年(1143年)ごろからスキンシップを図るために手紙を送ります。
しかし手紙は返って来ず、悶々とした頼長はなんと僧侶を呼んで返事がくるよう加持祈祷を行いました。
陰陽師を頼りに本懐を遂げるそれが実を結んでか隆季との仲立ちをしてくれる協力者が現れました。その人物は不思議なことに忠雅で、忠雅の仲介によって頼長は隆季と対面します。
しかし、隆季は肉体関係を拒み続け、それが1年以上も続きました。
目の前には待ち焦がれた隆季がいるのに、何もできないことに頼長は悩んだことでしょう。
その状態を打破するために頼長は信頼する陰陽師、賀茂泰親(かもの-やすちか)を頼りました。泰親は安倍晴明の子孫で、占いにおいて優れた才能を発揮した当代屈指の陰陽師です。
その泰親から恋愛成就のお守りを貰い、その努力が実ってか久安2年(1146年)に隆季と肉体関係を結べました。
念願の隆季とのその後念願の隆季とだけあって頼長はかなり燃えたそうで、自身の日記『台記』では隆季との全容を事細かに書いていました。
また隆季もかなりのテクニシャンだったようで、頼長は隆季と共に快感を得たこともあり、相性も抜群だったようです。
最後に恋焦がれた相手に僧侶や陰陽師を使い、恋の成就を祈る様子から頼長は隆季に対してかなりの執念があったことがわかります。また手に入れなければ気のすまない一種の独占欲もあったのではないかとの結論に至りました。
頼長が男色を好んだのはストレス発散だと思います。そう考えると当時の頼長が抱えていたストレスや苦労は尋常ではなかったことが伺えます。
参考:末國善己『夜の日本史』
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