江戸時代、大飢饉に襲われた伊予松山藩…ピンチの時にこそ問われるリーダーの真価

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江戸時代、大飢饉に襲われた伊予松山藩…ピンチの時にこそ問われるリーダーの真価

よく「政治家なんて、誰がやっても同じ」などという言説を耳にします。

確かに世の中が平和であれば、政治家なんてタレントやアイドルがたまに務める「一日署長」的なノリで何とでもなってしまうもの。

しかし、いざ有事となればそうもいかず、杜撰な政治施策のとばっちりを真っ先に食らうのは私たち庶民です。

そんな悲劇は今も昔も変わらなかったようで、今回は江戸時代に発生した「享保の大飢饉」における伊予松山藩のエピソードを紹介したいと思います。

伊予松山藩を大飢饉が…藩主の失政と代償

時は享保十七1732年、第8代将軍・徳川吉宗(とくがわ よしむね)の治世。2ヶ月の長きに及んだ長雨と冷夏、そして浮塵子(ウンカ。害虫)の大発生により、瀬戸内海を中心とした西日本46藩に甚大な被害をもたらした享保の大飢饉。

飢餓に苦しんだ人々(イメージ)。

どのくらいの被害かと言うと、46藩の総石高(米の生産量)約236万石に対して63万石、実に例年比マイナス73%以上の深刻なものでした。

あまりの事に幕府も大規模な財政支援を決定。各藩にその旨を通達したところ、伊予松山藩(現:愛媛県松山市)の第6代藩主・松平定英(まつだいら さだひで)は「せっかく支援してくれるなら」とばかり、被害を水増し申告。

その内容は、史料によって差があるものの、おおむね以下の通りです。

米の収穫高……ゼロ(!)
餓死者……3,489名(男性2,213名/女性1,276名)
餓死畜……3,097頭(牛1,694頭/馬1,403頭)

※『垂憲録拾遺』より、享保十七年11月29日届出分。

ほか松山藩士の随筆『却睡草』では餓死者4,789名、幕府による被災記録『虫付損毛留書』では5,705名とされており、幕府記録との差が水増し分と推測されます。ちなみに『日本災異志』では全国の餓死者を12,072名としています。

ちなみに、南海道(※四国+淡路島+紀伊国)全体では餓死者9,307名、餓死畜5,450頭となっており、伊予松山藩だけで餓死者の37.4%、餓死畜の56.8%を占めていることになり、水増し分を差し引いても、凄まじい被害です。

至るところに死者があふれた(イメージ)。

しかし、驚くのはこれだけに留まりません。三千名から五千名以上とも言われる犠牲者を出しているにも関わらず、藩士の餓死者はゼロ。つまり、犠牲となったのは民百姓ばかり。

これには日ごろ「民は生かさぬよう、殺さぬよう」を施政のモットーとしている幕府も流石に激怒、松平定英は十分な予防策を講じなかった怠慢と領民からの搾取を咎められ、差控(謹慎処分)に処せられます。

謹慎と言っても現代のように自宅でゴロゴロしていれば良いというものではなく、その責めがあまりに厳しかったためか、翌享保十八1733年4月19日に赦免されるも、5月21日に38歳という若さで急死してしまいました。

受け継がれる義農作兵衛の精神

これだけだと「やれやれ、為政者の中にはロクでもないヤツもいるんだね」で話が終わってしまいますが、伊予松山藩の中にもひとかどの人物はいました。その名は作兵衛(さくべゑ)、筒井村(現:愛媛県松前町)に住む農民です。

作兵衛は貞享五1688年2月10日、貧農であった作平(さくべいorさへい)とツルの息子として生まれました。

「どんな痩せた土地であっても、丹精込めて手入れをすれば、必ずよい田畑となった豊かな実りをもたらしてくれる」

「真面目にやってりゃあ、お天道様も見てござろ」今日も野良仕事に精を出す若き日の作兵衛(イメージ)。

つまり「努力は必ず報われる」という日本人らしい信念を実践していたため、人々から敬慕されていたそうで、やがてタマを妻に迎え、長男・作市(さくいちorさいち)と長女・カメ、次女(名前は不明)の一男二女に恵まれます。

しかし、享保の大飢饉によって田畑は全滅。前年にタマを亡くしていたところへ、作平と作市が相次いで餓死。それでも残された娘たち(ツルはすでに死亡)を食わせるために働き続けた作兵衛も、とうとう倒れてしまいました。

作兵衛を家に担ぎ込んだ村人たちは、彼が大切にとっておいた麦種の俵を見つけ「背に腹は代えられないから、その麦を食べた方がいい」と勧めるものの、作兵衛は承知しません。

「その麦種はみんなに蒔(ま)いてもらおうと貯めたものだ。いま自分が食べてしまったらそれっきりだが、みんながこれを蒔いてくれれば、来年には百倍にも千倍にも増やせる。だからどうか、みんなで命をつないで欲しい」

自分の死期を悟った以上、せめて娘たちや、みんなだけでも生き延びて欲しい。そんな作兵衛の心意気に打たれた村人たちは、どんなにひもじくても決してその麦種には手をつけず、大切に蒔くことで飢饉を乗り切ったのでした。

かくして作兵衛は餓死(享保十七1732年9月23日。享年45歳)。その翌月にはカメ(享年16歳)が、2年後には次女が亡くなったことにより、一家は全滅してしまいます。

作兵衛の死。『凶荒誌』より。

この話を聞いた伊予松山藩は筒井村の年貢を減免、また作兵衛の死から45年が経った安永六1777年には第8代藩主・松平定静(さだきよ)は作兵衛の功績を後世に伝えるべく「義農(ぎのう)」と称賛。石碑を建立しました。

更に明治時代に入ると作兵衛を御祭神として祀る義農神社(現:愛媛県松前町)が創建されるなど、彼の心意気を現代に伝えています。

終わりに

古来「上に『政策』あれば、下に『対策』あり」とはよく言ったもので、お上が杜撰な政治をしても、しぶとく生き残りを図るのが、我ら庶民のお約束。

そんな世の中にあって、作兵衛のように命さえ惜しむことなく天下公益を求めた心意気はまさに至純。とても眩しく、少しでも見習いたいものです。

※参考文献:
愛媛県史編さん委員会 編『愛媛県史 近世 上』愛媛県、1986年1月
愛媛子どものための伝記刊行会『愛媛子どものための伝記 第4巻 鍵谷カナ・下見吉十郎・義農作兵衛』愛媛県教育会、1983年10月

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