江戸時代、大飢饉に襲われた伊予松山藩…ピンチの時にこそ問われるリーダーの真価 (1/5ページ)

Japaaan

江戸時代、大飢饉に襲われた伊予松山藩…ピンチの時にこそ問われるリーダーの真価

よく「政治家なんて、誰がやっても同じ」などという言説を耳にします。

確かに世の中が平和であれば、政治家なんてタレントやアイドルがたまに務める「一日署長」的なノリで何とでもなってしまうもの。

しかし、いざ有事となればそうもいかず、杜撰な政治施策のとばっちりを真っ先に食らうのは私たち庶民です。

そんな悲劇は今も昔も変わらなかったようで、今回は江戸時代に発生した「享保の大飢饉」における伊予松山藩のエピソードを紹介したいと思います。

伊予松山藩を大飢饉が…藩主の失政と代償

時は享保十七1732年、第8代将軍・徳川吉宗(とくがわ よしむね)の治世。2ヶ月の長きに及んだ長雨と冷夏、そして浮塵子(ウンカ。害虫)の大発生により、瀬戸内海を中心とした西日本46藩に甚大な被害をもたらした享保の大飢饉。

飢餓に苦しんだ人々(イメージ)。

どのくらいの被害かと言うと、46藩の総石高(米の生産量)約236万石に対して63万石、実に例年比マイナス73%以上の深刻なものでした。

あまりの事に幕府も大規模な財政支援を決定。各藩にその旨を通達したところ、伊予松山藩(現:愛媛県松山市)の第6代藩主・松平定英(まつだいら さだひで)は「せっかく支援してくれるなら」とばかり、被害を水増し申告。

その内容は、史料によって差があるものの、おおむね以下の通りです。

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