本能寺の変と細川藤孝の決断。明智光秀と共に滅びる立場にありながら豊臣秀吉から功を賞された男

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本能寺の変と細川藤孝の決断。明智光秀と共に滅びる立場にありながら豊臣秀吉から功を賞された男

1582年に起きた本能寺の変とその後の混乱は、日本の歴史を大きく変えました。

天下統一に向けて快進撃を続ける織田信長が明智光秀に討たれ、その光秀も羽柴秀吉によって敗死し、最終的に秀吉が日本の支配者となったことは周知の通りです。

そしてその過程には数えきれないほど多くの人たちが巻き込まれ、ある者は立身を果たし、ある者は没落を余儀なくされ、ある者は命を落とすことになりました。

今回ご紹介する細川藤孝(ふじたか)もその一人。彼は一連の流れの中で

光秀とともに滅びても不思議ではない立場にありながら、戦場に立つことなく秀吉から功を賞されて豊臣政権において重用される

という離れ業をやってのけています。

いかにして成し遂げたのか、なぜそれが可能だったかを、詳しく見ていきたいと思います。

本能寺の変までの細川藤孝

細川藤孝は1534年生まれ。織田信長とは同い年です。

隠居後の名である「細川幽斎」としても知られる藤孝は、武将でありながら文化人としても名高く和歌、茶道、蹴鞠、舞踊、料理、囲碁などジャンルを選ばず活躍し、特に和歌においては「古今伝授」と呼ばれる秘伝を授けられた人間国宝級の人物でした。

藤孝は足利幕府高官の家に生まれ、13代将軍義輝、15代将軍義昭に仕えます。

足利義昭は織田信長の力を借りて将軍位に就いており、当初両者の関係は良好でした。
しかし、やがてそれが悪化すると両者の間を取り持とうと奔走し、かえってそのせいで義昭から疎まれる羽目に。最終的に義昭が京を追放されると、信長に請われて彼に仕えることになります。

その後はかねて交友のあった明智光秀の下に属し、各地を転戦して武功を立てました。

ここで強調しておきたいのは、藤孝が光秀の家臣ではなかったということです。

藤孝も光秀も権限の差こそあれ、どちらも信長の家臣という意味では同格でした。
藤孝はあくまで、主君である信長が「光秀の指示に従え」と命令したからそれに従っているという関係。このことは、本能寺の変が起きた後の藤孝の行動に大きく影響します。

本能寺の変、そして

1582年6月2日早朝、毛利氏を攻略すべく中国地方に向かっていたはずの明智光秀の軍勢が突如京に現れ、本能寺に宿泊中の織田信長を襲撃。信長は自刃に追い込まれます。

続いて二条御所に立て籠もった織田信忠(信長の長男であり後継者)を攻め滅ぼすと、光秀は自身が天下に号令する旨を宣言。周辺の大名、特に織田家臣時代に光秀の指揮下にいた大名たちに、自分に味方するよう使者を送ります。

その中には当然、細川藤孝も含まれていました。

藤孝と光秀は長年に渡って共闘していた仲であり、藤孝の息子・忠興と光秀の娘・たまは結婚していたため、親戚同士でもありました。
(余談ですが、たまは後にキリスト教徒となり細川ガラシャと呼ばれることになります)

光秀も、藤孝だけは何があっても見方してくれるだろうと思っていたに違いありません。しかし、その期待は打ち砕かれることになります。

藤孝の対応

藤孝が本能寺の変を知ったのは、事件の翌日である6月3日。

すぐさま藤孝は信長の死を悼むと称して剃髪(髪を剃って僧形になること)し、当主の座を息子・忠興に譲って隠居。さらに

光秀に義絶を通達する 大阪にいた織田信孝(信長の三男)に忠誠を誓う使者を出す たま(光秀の娘)を幽閉する 光秀からの使者を追い返す

といった具合に「絶対に光秀には味方しない」という姿勢を、これでもかというくらいに打ち出します。

6月9日には再び光秀からの使者が訪れ、破格の好待遇で味方に誘う……というより、もはや泣きつくように懇願しますが断固拒否。

ずいぶん徹底的にやったなあという印象ですが、これには理由がありました。

前述の通り、藤孝と光秀が公私ともに親しい……というより一蓮托生の状態にあることは周知の事実でした。つまり本能寺の変の第一報を受けた世間が

「細川藤孝も一味に違いない」

と考えるのはむしろ自然なことですし、ちょっとくらい反光秀っぽいことをしても

「裏で繋がっているんでしょ?」

という疑いを拭いきることはできません。

津田信澄(信長の甥)は光秀の娘婿でしたが、それを理由に光秀に通じていたと誤解され、自刃に追い込まれています。藤孝も同じような目に遭う可能性は十分過ぎるほどありました。
光秀に与しないというパフォーマンスは、どれだけやってもやり過ぎということはなかったのです。

光秀はそれでも諦めずに藤孝を説得しようとした……かどうかは、今となっては分かりません。彼は6月13日に山崎の地で羽柴秀吉と戦い敗れ、逃走中に命を落としたのです。

山崎の戦いと藤孝

ここまで徹底して反明智を貫いた藤孝のことですから、山崎の戦いでは羽柴軍の一翼を担い果敢に戦った……かと思いきや、そんなことはありませんでした。

細川軍は領国から一歩も動かなかった、あるいは動けませんでした。

当時、細川家は丹後国(現在の京都府北部)南部に拠点を置いていたのですが、丹後北部の一色家が光秀に味方することを表明していました。

羽柴軍と明智軍が激突したのは京都と大阪の境目あたり。藤孝が軍を率いて南下したら、無防備になった本拠地を一色に襲われかねません。一色側から見ても、細川家がいる以上京方面へ進出することができません。

結局、丹後国で細川家と一色家がにらみ合っている間に山崎の戦いは起こり、決着していたのでした。

これは「戦いに間に合わなかった」ということで責められても不思議ではない状況です。しかし勝者となった秀吉からは

「あなた方の活躍は見事でした。今後も仲良くしてください(意訳)」

という絶大な感謝を受けることになりました。

【後編】藤孝の功績とは?藤孝はなぜ決断できたのか?に続きます…

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