鼻のことは聞いちゃダメ!天下一気が短い?戦国武将・細川忠興の短気さを物語るエピソード (3/5ページ)
幽斎の死によって古今伝授が断絶してしまうことを恐れた天皇は、勅命を出し西軍に田辺城を明け渡したことで戦いに終止符がうたれます。
しかし、忠興は城を枕に討ち死にすることなく、城を開け渡したことに不服だったのか田辺城の戦い以降、幽斎と不仲となりました。
勅命だろうが何だろうが忠興の居城を明け渡したという事実が、幽斎と不仲となった要因と考えられます。
気に入らないことがあれば身内でも容赦なし【息子たち編】忠興の短気さは父にだけではなく、息子たちにも向けられました。それは慶長5年(1600)、忠興の妻ガラシャが西軍の人質になることを拒み自決した時のこと。
ガラシャの側には忠興の嫡男忠隆の妻で前田利家の娘千世(ちよ)がいましたが、脱出に成功し前田家屋敷に逃れていました。
忠興は徳川家康が細川家と前田家の婚姻関係を良く思っていないことを知っていたので、今回のことを理由に離縁するよう忠隆に命じます。
しかし、離縁に納得せず忠隆は千世を庇うような行動を取りました。そのことが、つい最近ガラシャを失った忠興の怒りを助長させてしまい親子関係がこじれ、慶長9年(1604)には廃嫡されてしまいました。
また、忠興は次男興秋(おきあき)にも容赦のないことを行います。