鼻のことは聞いちゃダメ!天下一気が短い?戦国武将・細川忠興の短気さを物語るエピソード (4/5ページ)

Japaaan

忠隆が廃嫡となり、興秋が嫡男となるのかと思いきや、徳川家の人質だった三男忠利(ただとし)が徳川秀忠の信頼を得ていたことで、忠利が家督を継ぐことになりました。

 細川忠利/Wikipediaより

これに不満だった興秋は慶長10年(1605)に細川家を後にし、その後の大坂の陣では豊臣方として戦います。

そして敗北後、家康は助命してきた興秋を許そうとしていましたが、忠興は許すことはせず、諦めた興秋は自害しました

自分の判断に従わない者は例え息子たちでも容赦のない決定を下したり、当時大御所だった家康の判断を覆した忠興には鬼気迫るものがあったと感じてしまいます。

愛刀の由来は三十六歌仙から

忠興の愛刀は歌仙兼定(かせんかねさだ)でその名に恥じない由来がありました。

それは忠興も和歌に精通しており、それにあやかった訳ではなく、忠興が不忠であることを理由に手打ちにした忠利の側近たちが関係していました。

その数はなんと36人!そこから三十六歌仙を引っ張り出し、愛刀の名前としました。

最後に

身内にも容赦がなく短気な忠興ですが、晩年になるとこれまでとは打って変わって丸くなりました。

「鼻のことは聞いちゃダメ!天下一気が短い?戦国武将・細川忠興の短気さを物語るエピソード」のページです。デイリーニュースオンラインは、細川忠興戦国武将戦国時代カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る