身内殺しの策略家。戦国三大悪人の一人「宇喜多直家」の悪しき所業【前編】 (2/2ページ)
浦上氏内部で政策の違いから兄である政宗と弟の宗景が対立すると、直家は宗景に臣従した。1556年~57年には、過去に祖父が城主であり、自身が生まれたとされる砥石城(といしじょう)を政宗方から奪還。浦上家家臣の中で徐々に頭角を表していった。
祖父の仇と義父、義弟を謀殺直家は浦上氏の重臣となっていた祖父の仇・島村盛実を謀反の嫌疑で暗殺することに成功する。また、同様に浦上宗景の重臣であった中山信正を謀殺。信正の娘は直家の正室であり、義理の親子関係にあった人物である。
1561年。砥石城に続き信正の沼城も陥落させた直家は、以前から浦上氏と敵対関係にあった松田氏配下の武将・穝所職経(さいしょもとつね)を謀略の末に殺害。職経の妻は直家の妹であり義弟関係にあったが、直家は職経の男色好みを利用して小姓の美男子を刺客として送り込んだという。
日本初の要人狙撃事件1566年。敵対していた備中国(現在の岡山県)の大名・三村家親(みむらいえちか)の暗殺計画を実行。浪人であった遠藤俊通・秀清兄弟を使い、短筒の火縄銃を用いて狙撃。暗殺を成功させる。
銃を用いた暗殺事件の成功例としては日本で最初の事件ともいわれている。
【中編】に続く
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan