時の権力者に苦言を呈した高僧!明恵上人は「鎌倉時代の半沢直樹」

日刊大衆

写真はイメージです
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「かようなことをしていいと思うのなら、即刻、この国から出ていかれよ!」

 人気ドラマ『半沢直樹』(TBS系)の主人公が政財界の大物に対し、「やられたらやり返す、倍返しだ!」という決め台詞を浴びせたように、鎌倉時代、時の権力者に面と向かって、こう言い放った人物がいた。

 それが華厳宗(大本山・東大寺)中興の祖である高僧の明恵上人(明恵房高弁)で、彼が苦言を呈した北条泰時は後の鎌倉幕府の執権。二人はそれほどまでに互いに心を許し合い、明恵は名執権と讃えられる泰時の治世に深く関係したものとみられる。その原因は何か。

 この逸話が掲載される『明恵上人伝記』(以下、『伝記』)によると、後鳥羽上皇が承久三年(1221)、泰時の父である北条義時を討とうとして敗れた(承久の乱)。

 その際、京の栂尾・高山寺(右京区)に住していた明恵が敗走した上皇方の兵の多くを匿ったことで、これを知った幕府軍の秋田城介義景(景盛)が彼を捕縛し、六波羅探題(京の治安を担う政庁)に連行。明恵は当時、追討軍の大将だった泰時にこう言った。

「高山寺の境内は殺生禁断の地。鷹に追われる鳥。狩りから逃れる獣けもの。みなここに隠れて命を永らえておる。それなのに、わが身が咎めを受けるからというて、木の根元や岩の陰に隠れる兵士たちを情け容赦なく追い出すことなどがどうしてできようか。それが政道の妨げになるというのなら、直ちに愚僧の首を刎ねられいっ!」

 泰時はこの言葉に感泣し、「仔細を知らぬ東夷(坂東武者のこと)が狼藉仕った事申し訳ござらん」と詫び、明恵の人柄に惚れて師事。以来、二人の交流は続き、明恵は泰時が栂尾にやって来た際、幕府が後鳥羽上皇らを配流したことから冒頭の厳しい言葉を投げつけたという。

 だが、その後に「道理に背く貴殿ではないのにどうしてそのようなことをしたのか、いたわしく存ずる」と優しく諭すと、泰時は涙を流して鼻水を啜りながら、「それがしは父上に翻意いただくよう言葉を尽くしましたが、聞き入れていただけませんでした」と弁解。泰時はこうして明恵に深く帰依するようになった。

 一方、明恵を捕縛した秋田城介が語ったところによれば、泰時は後に人に会った際によく、こんなことを口にしていたという。

「不肖蒙昧の身でありながら執権として天下の政をつかさどることができたのは一筋に明恵上人の御恩あったゆえである」

 その明恵の教えは「太守(執権)が無欲に徹すれば、その徳に導かれ、国家の万民も自然と欲心を抱かぬようになり、天下は安んじられる」というもの。

 泰時は実際、その教えを守り、父の義時が逝去した際、伯母である北条政子の反対を押し切り、遺産をわずかばかり相続し、その多くを舎弟らに分配。

 彼が高山寺に丹波の荘園を寄進したいと申し出ると、明恵は「かような所領があれば僧たちが怠けてしまい、浅ましい様になりはててしまう」といって返却したという。

 はたして、以上の二人のやり取りは事実だろうか。

 明恵は承安三年(1173)正月に生まれ、父が高倉上皇(平清盛の婿)の武者所に仕える関係から京で育った。八歳のときには父が上総国で戦死。ちょうど源頼朝が挙兵した頃だけに、その軍勢と平氏方の武士が戦って敗れた合戦で討ち死にしたのだろう。

 明恵はその後、叔母の夫に養われ、父が他界した翌年、紀伊の豪族で縁のある湯浅一族の者が文覚上人の弟子だったことから、高尾の神護寺(右京区)に入山。

 厄介払いされたようにも思われるが、明恵は二歳の頃、乳母に連れられて清水寺に参詣して深く仏教に帰依するようになったともされる。僧になることは自らの意思でもあったとみられ、こうして高尾で顕密の教えを学び始める。

■明恵と泰時はお互いに和歌を贈答する関係!

 仏教は大きく顕教と密教に分けられ、彼はその両方に通じ、のちに前者である華厳宗に密教の要素を取り入れ、華厳密教(厳密)の教えを広めるようになった。

 その後、明恵は一六歳で出家し、東大寺戒壇院で受戒。のちに東大寺尊勝院学頭となって華厳宗の復興に尽力し、浄土宗の開祖である法然上人の教えを批判したことでも知られる一方、やはり、前述の高山寺の印象が強い。

 明恵は一時、三蔵法師のように天竺(インド)を旅することを志したこともあったが、神護寺の別院でありながら荒廃していた高山寺の再興を二六歳の頃、文覚から託される。

 ちなみに世界遺産の高山寺は国宝の『鳥獣戯画』を所蔵していることでも知られ、日本で初めて茶が栽培されたところといわれる。

 臨済宗を開いた栄西禅師が中国の宋から持ち帰った茶の実を明恵に伝え、山内で植え育てたところ、修行の妨げとなる眠りを覚ます効果があるため、衆僧に薦めたという。

 これも『伝記』に書かれた話で、明恵の弟子である喜海の作とされ、奥付にもその旨が記されている。

 むろん、多少の誇張があったとしても事実と考えたい反面、明恵の存在が理想化された南北朝時代以降、弟子に仮託して作られたともいわれ、内容は全面的に信用することはできない。

 とはいえ、明恵と泰時が互いに和歌を贈答する仲だったことは事実。実際、その和歌に「心は常に通う」という字句があり、また、明恵が荘園の寄進を辞退した事実も確認することができる。

 一方、栄西と明恵の交流は確かな史料で確認することができない。

 むろん、関係はあったようだが、茶の逸話については栂尾における栽培が有名となったため、日本にこれをもたらしたとされる栄西の話が合わさって伝説化したのだろう。

 多くの伝説を残した明恵はこうして寛喜四年(1232)正月一九日、かねてよりの病いが悪化し、高山寺禅堂院で喜海らの弟子に見守られ、この世を去った。享年六〇。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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