5男から今川氏当主へ。戦国大名「今川義元」の家督相続物語 【前編】

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5男から今川氏当主へ。戦国大名「今川義元」の家督相続物語 【前編】

戦国大名として名門・今川氏の全盛期を築き上げた「今川義元(いまがわよしもと)」

しかし、義元が今川家の当主となる過程には、様々な障害や偶然が存在したことはあまり知られていない。今回は、今川氏当主の5男として生まれながら、当主の座を射止めた戦国大名・今川義元の家督相続への道程をご紹介する。

出生

1519年。駿河今川家9代当主「今川氏親(いまがわうじちか)」の子として生まれる。母親は氏親の正室「寿桂尼(じゅけいに)」。寿桂尼の父は公家の中でも地位の高い公卿であり、義元も生まれながらに高い家格の血を継いでいた。

4人の兄

義元には4人の兄がいたとされる。長男の「今川氏輝(いまがわうじてる)」と、次男の「今川彦五郎(いまがわひこごろう)」は義元と同様に寿桂尼の子であった。

氏親には側室との間にも3男「玄広 恵探(げんこう えたん)」がおり、4男とされる「象耳 泉奘(しょうじ せんじょう)」に関しては出生および実在が定かではない。

4人の兄が実在したと仮定すると、義元は5男(正室の子としては3男)となり、家督継承権こそ有していたものの継承順位は低かった。

幼き義元が出家した京都の「建仁寺」(Wikipediaより)

4歳で仏門へ

義元は4歳にして駿河国の善得寺に預けられている。義元と同様に3男の玄広 恵探と、4男の象耳 泉奘も仏門に入っていることから、家督相続権は長男の氏輝と次男の彦五郎に絞られていたことがわかる。

幼き義元は、臨済宗の僧侶であった「太原雪斎(たいげんせっさい)」の元で養育された。その後は雪斎と共に京都の建仁寺に入り「栴岳承芳(せんがくしょうほう)」と名乗った。

父の死と氏輝の家督相続

1526年。義元7歳の年に父・氏親が死去。長男の氏輝が家督を継いだ。義元は氏輝の命によって駿河に帰還した。氏輝は母である寿桂尼の補佐や、相模国(現在の神奈川県)を統治する北条氏との同盟によって政権運営を行うが、10年後の1536年に急死する。

後継当主は氏親の次男である彦五郎であるはずだったが、氏輝と同日に死亡。氏輝と彦五郎の死因は不明で、病死説や暗殺説など様々な憶測が存在している。

この後、当主と当主候補を同時に失った今川家は混乱。家内を二分する内紛に発展することとなる。

【後編】では、当主候補となった義元のその後をご紹介する。

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