5男から今川氏当主へ。戦国大名「今川義元」の家督相続物語 【後編】 (1/2ページ)
駿河国の戦国大名「今川義元(いまがわよしもと)」は、5男でありながら今川氏の家督を相続した。
今回は、【前編】に引き続き、今川義元の家督相続の道程をご紹介する。
前回の記事
5男から今川氏当主へ。戦国大名「今川義元」の家督相続物語 【前編】 還俗から当主候補へ当主継承の可能性が低いと見られていた義元だったが、当主・氏輝と次男・彦五郎の相次ぐ死によって有力な継承候補となる。
寿桂尼の子であることを理由に当主継承を乞われた義元は還俗した。その際に主君である室町幕府12代将軍足利義晴から偏諱を賜って、正式に「義元(よしもと)」と名乗った。
しかし、今川氏傘下の有力国人であった福島氏が義元の家督相続に反対。外戚にあたり、氏親の3男である義元の庶兄・玄広恵探(げんこうえたん)を擁立し、義元方に反旗を翻した。
花倉の乱(はなくらのらん)寿桂尼の尽力によって義元方と恵探方は話し合いを試みるも失敗。1536年。恵探は駿河湾に面した久能城を拠点に挙兵。義元の居る今川館を襲撃する。
しかし、義元方は参謀である太原雪斎の活躍などもあり、返り討ちに成功。恵探方は花倉城まで退き抵抗を続けた。
