日本最初の戦国大名。戦乱の世に生きた「北条早雲」の生涯【前編】 (2/2ページ)

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残された遺児である「龍王丸(今川義元の父)」は幼く、今川家内に家督争いが勃発する。反龍王丸派が、義忠の従兄弟である「小鹿範満(おしか のりみつ)」を擁立したことで駿河情勢は混沌した。

早雲は父の命を受けて家督争いの仲裁のために駿河へ下向する。早雲の働きによって龍王丸が成人するまで範満を家督代行とすることで騒動は決着した。

今川家の中心人物から戦国大名へ

1487年。早雲の仲介によって今川家を実質的に支配していた小鹿範満は、龍王丸が15歳になっても家督を譲ろうとはせず約束を反故にした。

北川殿と龍王丸に頼られた早雲は再び下向。駿河館を襲撃して小鹿範満を殺害。龍王丸は2年後に元服して「今川氏親(いまがわうじちか)」を名乗り今川家当主となる。早雲は駿河国内の興国寺城に所領を与えられたことを契機に駿河に留まり氏親を補佐したとされる。

北条早雲(Wikipediaより)

この時期の早雲は、父と共に幕府の要職にあったとされ、室町幕府9代将軍・足利義尚の「申次衆」(もうしつぎしゅう)の任を1487年まで務めたとされる。

駿河に拠点を移し申次衆から解かれた事で、以後の早雲の活動は独自性が強くなり、戦国大名としての位置付けが明確化していく事になる。

【中編】へ続く

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